五代友厚 伊達宗城(1)
Godai Tomoatsu, Date Munenari (1)

伊達宗城
伊達宗城 Date Munenari

五代友厚は、文久3年(1863年)の薩英戦争で捕虜となり、解放された後しばらく武州で潜伏生活を送っていたが、翌年正月密かに長崎に戻る。薩摩藩士の野村盛秀(宗七)や川村純義に薩英戦争の際の自らの行動を説明し、世界の大勢をとき、元治元年(1864年)4月頃ようやく青天白日の身となった。時をおかず、富国強兵と英仏への留学生派遣、またその資金の調達方法を述べた上申書を藩に提出するとそれが認められ、元治2年3月に鹿児島羽島から欧州へ向け出発するまでの間、長崎で洋行準備に勤しんだ。

こうした中、五代は元治元年末に宇和島藩へ赴き、第8代宇和島藩主伊達宗城(むねなり)に謁見していたようである。宗城は、当時すでに伊達宗徳(むねえ)に藩主の座を譲っていたが、藩政の実権は相変わらず宗城が握っていた。宗城は文政元年(1818年)生まれ、早くから世界を見据え、洋学の研究を奨励し、自前の砲台や蒸気船を建造させるなど、先覚的な発想と実行力をあわせ持つ賢君であった。五代が渡欧を前に宇和島藩を訪れたのは、洋行のための資金調達を含め、開明派の宇和島藩とつながりを持つことの重要性を考えてのことだろう。また、元治元年には第一次長州征討があり、そういった情勢を探る目的もあったのかもあったかもしれない。

宇和島伊達家は、伊達政宗の庶長子秀宗を藩祖とし、仙台伊達家と血縁でつながっている。宇和島は10万石の小藩ながら、藩主宗城は、薩摩の島津斉彬、越前の松平慶永(春嶽)、土佐の山内豊信(容堂)と並び幕末の四賢侯の一人と謳われた。伊達の血をひく宗城は、倒幕に傾く薩長に同調できず、戊辰戦争でも中立の立場をとったが、維新後は外国事務総督、民部卿、大蔵卿などを歴任し、明治4年(1871年)には欽差全権大臣として清国に赴き日清修好条規を結ぶ大任を果たした。明治の初め、五代は外国事務掛であったから、外国事務総督の宗城は一時五代の直属の上司であったわけである。

<参考文献>
三好昌文『幕末期宇和島藩の動向 -伊達宗城を中心に- 第1巻』2001年

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