五代友厚 琉球(足跡篇)
Godai Tomoatsu, Ryukyu (Footprints)

沖縄の那覇を歩きました。幕末に琉球国に滞在していた外国人にゆかりの地や薩摩藩在番奉行所跡を訪ねました。(写真は昨年のものです)

I walked around Naha, Okinawa. I visited places related to foreigners who were staying in Ryukyu Kingdom in the late Edo period and Satsuma magistrate’s office in Ryukyu. (These photos were taken last year.)

泊港(とまりこう)です。
那覇港の少し北、安里川の河口に位置しています。13世紀から14世紀には、宮古島、八重山、奄美大島の貢納船が出入りし賑わっていたといいます。今も各離島へのフェリーがこの港を発着しています。
15世紀ごろからは、那覇港が中国や東南アジアと交易を行う国際港として発展し、琉球王国の表玄関となりました。
19世紀に欧米諸国の艦船が来航するようになると、薩摩藩の在番奉行所などが近い那覇港には入港させず、この泊港に投錨させたということです。イギリスやフランスの宣教師たち、黒船に乗ってやってきたアメリカのマシュー・ペリー(Matthew Perry)もここから上陸しました。

泊港
泊港 Tomari Port

泊港のすぐそばに泊外人墓地があります。フォルカードの後任として滞在していた仏人宣教師アドネ(Adnet)は、1848年に結核のためこの地で亡くなり、泊墓地に埋葬されました。

泊外人墓地
泊外人墓地 Tomari International Cemetery

古い墓は22基あり、内訳は中国人6、アメリカ人10、イギリス人2、フランス・スウェーデン各1、不明2ということです。この墓は現在も利用されていて、主にアメリカ人が葬られているそうです。

泊外人墓地の説明
泊外人墓地の説明 Explanation of Tomari International Cemetery

墓地の中に「ペルリ提督上陸之地」という石碑があります。黒船のペリーは、1853年に浦賀へ向かう途中琉球にも上陸していました。王府側が拒否したにも関わらず、ペリーは大砲や楽隊を引き連れ隊列を組んで、強引に首里城へ入城したといいます。

ペルリ提督上陸之地記念碑
ペルリ提督上陸之地記念碑 M. C. Perry Landing Monument at Tomari

泊外人墓地から坂道を少し上がったところに天久山聖現寺というお寺があります。琉球王府は、上陸した外国人にこの寺を宿舎として提供しました。1844年に来琉したフランス人宣教師フォルカード(Forcade)はここに約2年間滞在しました。ペリー艦隊の宿舎にもなっています。
もともとは泊外人墓地のすぐ隣りに位置していましたが、戦争で焼失し、現在の場所に移転したそうです。

天久山聖現寺
天久山聖現寺 Shogenji Temple

泊港から海沿いを南下すると、若狭というところに波之宮(なみのうえぐう)があります。この神社は崖の上にあって海を望むことのできる高所に建っています。

波上宮
波上宮の鳥居 Torii Gate of Naminouegu Shrine

那覇港を出入りする船は、波上宮の崖の上の神殿を見上げて航海の無事を祈り、感謝を捧げたといいます。

波上宮本殿
波上宮本殿 Naminouegu Main Shrine

波上宮の隣りに波上山護国寺があります。護国寺は波上宮の神宮寺で、ここには1846年に来琉した宣教師ベッテルハイム(Bettelheim)が住んでいました。ベッテルハイムの後継者のモートン(Moreton)も1854年にここに入りましたが、翌年には琉球国を去っています。

波上山護国寺
波上山護国寺 Gokokuji Temple

波上宮や護国寺の遠景スケッチが、1850年代の海外の新聞に載っています。ベッテルハイムの住居として描かれたものです。
琉球王府は宣教師たちの退去を要請しましたが、宣教師たちは長年にわたり滞留し続けました。琉球王府は渋々彼らを客人として丁重に扱いながらも、人々を外国人に近づけないよう細心の注意を払っていました。

ベッテルハイムの住居
ベッテルハイムの住居 Bettelheim’s Residence (Illustrated London News, 8 March 1851)

ベッテルハイムが住んでいたことを示す「ベッテルハイム博士居住之趾」という記念碑も建っています。
ベッテルハイムは8年間もここに居住していましたが、布教活動はうまくいかず、キリスト教信者を獲得することはまったくできませんでした。泊村の聖現寺に滞在していたフランス人宣教師たちも状況は同じでした。

ベッテルハイム博士居住之趾
ベッテルハイム博士居住之趾 Memorial to Bettelheim at Gokokuji Temple

ベッテルハイムの住居として描かれた護国寺の一角です。
ベッテルハイムは妻と娘、中国人通訳とともにやって来ました。8年間の滞在中にもうひとり娘が生まれたといいます。

ベッテルハイムの住居
護国寺のベッテルハイムの住居 Residence of Dr. Bettelheim (Illustrated London News, 8 March 1851)

那覇港のすぐ北に薩摩藩在番奉行所跡があります。
1609年の島津氏琉球侵攻後、薩摩藩の出先機関として1628年に設置され、以来1872年までの約250年間薩摩藩の役人が常勤し、薩摩藩による琉球支配の拠点となりました。明治に入ってからしばらくは沖縄県庁が置かれていました。

 薩摩藩在番奉行所跡
薩摩藩在番奉行所跡 Satsuma magistrate’s office in Ryukyu

薩摩の琉球支配は中国には知られていないことになっていましたから、中国から冊封使が来ている間、薩摩の役人たちは那覇から離れた浦添へ移動することが 決められていました。薩摩の役人は常時20人ほどいたようです。しかし、冊封使の来琉は数十年に一度しかない大イベントでしたので、彼らも冊封の儀式をこっそり見学していたといいます。
島津斉彬の命で琉球に派遣された市来四郎も、仏人宣教師らと会う際は琉球の装束を着て、トカラ島人の医師伊知良親雲上(いちらぺーちん)と称して交渉の席についていました。

薩摩藩在番奉行所跡説明
薩摩藩在番奉行所跡説明 Explanation for Satsuma magistrate’s office in Ryukyu

最後に一枚、沖縄らしい写真を。

沖縄のシーサー
沖縄のシーサー Okinawan Shisa

<住所>
泊港:那覇市泊〜前島
泊外人墓地:那覇市泊3丁目
天久山聖現寺:那覇市上之屋392
波上宮:那覇市若狭1-25-11
波上山護国寺:那覇市若狭1-25-5
薩摩藩在番奉行所跡:那覇市西1-2-16(琉球光和ビル)

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