五代友厚 琉球(2)
Godai Tomoatsu, Ryukyu (2)

市来四郎が撮影した島津斉彬の写真
市来四郎が撮影した島津斉彬の写真 1857年 Shimazu Nariakira taken by Ichiki Shirou, 1857

弘化元年(1844年)に仏艦が宣教師フォルカード(Forcade)らを那覇に残して去って以降、琉球には数人の仏人が入れ替わり1848年まで滞留した。7年の間をおいて安政2年(1855年)からは、ジラール(Girard)ら3名の仏人宣教師と中国人通訳が、再び来琉し那覇の天久山聖現寺に滞在していた。

一方、外国貿易により富国強兵の道をつけようとした薩摩藩主島津斉彬は、次のような計画を実現せしめようと、安政4年から市来四郎を琉球に送りこむ。

・琉球、奄美大島、山川港において、オランダあるいはフランスと貿易を開くこと
・蒸気船を購入すること
・英仏米へ書生を留学させること
・台湾に渡唐船の碇泊場を確保すること
・福州の琉球館を拡張し、唐貿易を盛んにすること

安政4年というのは、ちょうど五代友厚が鹿児島を出て長崎海軍伝習所で航海術や測量を学び始めた年である。斉彬は、薩摩から派遣する留学生には砲術又は造船航海術等を学ばせる計画を立てていたから、実現すれば五代がメンバーに含まれていたかもしれない。しかし、安政5年夏に斉彬は急死し、その可能性もついえた。市来はジラールと交渉して蒸気船購入の契約寸前までこぎつけていたが、これも白紙撤回せざるを得なくなった。撤回の理由は市来が落馬で死去したことにし、フランス人をごまかすため市来は自分の墓まで立てたという。

その後、五代は文久2年(1862年)に上海で蒸気船を購入したのを皮切りに、薩摩藩の御船奉行副役として藩のために何隻もの蒸気船を購入している。慶応元年には、薩摩藩から五代を含め19名の留学生が渡欧した。これは五代自身が薩英戦争後に書いた上申書が受け入れられたもので、上申書では留学生派遣とともに富国強兵を強く説き、資金調達には中国との貿易、特に上海貿易を具体的に提案している。表向きは琉球国へ運送すると言って、上海に乗り越したらよいというのである。このとき奄美諸島での白糖製造とその輸出についても触れている。渡欧中には、フランス人でベルギーの爵位を持つシャルル・ド・モンブラン(Charles de Montblanc)と合弁商社の話を進め、鉱山地質学に詳しいフランス人技師たちの来日にも深く関わったとみられる。

こうしてみると、五代が20代から30代前半に精力を注いだことの多くは、外国貿易と外国技術の導入により富国強兵をはかろうとした斉彬の素志を受け継ぎ具現化したものであることがわかる。幕末、薩摩藩はイギリスとの関係を急速に深めていったため、五代がモンブランと交わした商社計画は歓迎されなかったというが、薩摩藩は当初フランスとのつながりをさぐっていたのである。

<参考文献>
上原兼善『鎖国と藩貿易』1981年
下岡絵里奈『一九世紀中葉の琉球における宣教様相とキリシタン禁制:フランス人宣教師を中心に』「沖縄文化研究 (45)」2018年
畠中敏郎『第二次フランス宣教師団と沖縄』「天理大学学報 (151)」1986年

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