14世紀後半、琉球は明国と朝貢関係を結び、その恩恵を受けて日本、中国、南海諸国の中継貿易地として隆盛した。しかし、16世紀の大航海時代になるとスペイン、ポルトガル、オランダがアジアに進出し、琉球貿易は低迷し始める。17世紀初頭に島津氏の侵攻を受け、那覇に薩摩の役人が駐在するようになると、琉球口の貿易もほぼ薩摩に支配された。
18世紀末には、英仏船が多く琉球近海に姿を現すようになる。弘化元年(1844年)に来航した仏軍艦アルクメーヌ号(L’Alcmène)は、乗組員300人余り、大砲30余門を備え、上陸するや通信、貿易、布教の3ヶ条を要求した。琉球側が拒否したにも関わらず、艦長フォルニエ・デュプラン(Fornier Duplan)は、次に来る仏大総兵都督へ返答するよう言い残し、宣教師テオドール=オギュスタン・フォルカード(Théodore-Augustin Forcade)と中国人伝道士オーギュスタン・コウ(Augustin Ko)を那覇に残留せしめた。島津斉興は、薩藩家老調所笑左衛門広郷を通じて幕府老中阿部正弘に仏艦の来琉を報告する。阿部は薩摩から琉球への警備兵派遣を命じた。
五代友厚の父秀堯(ひでたか)は、琉球警備に赴く友人のため、琉球秘策という意見書を書いている。秀堯曰く、清国アヘン戦争の例をもってしても西洋諸国との交戦は避けるべきであり、そのため琉球においては通商を認めることもやむを得ない。ならば貿易を薩摩藩の利になるよう計策すればよいというものであった。友厚が10歳頃のことである。
その後、調所は貿易に限ってフランスに譲歩すべしとの案を幕府に主張し、阿部はそれを黙許した。調所は、琉仏貿易プランを練る一方、薩藩の利益を優先させるあまり経費のかさむ警備兵は極秘裡に引き揚げ、琉球の困窮を顧みることなく密貿易に邁進した。藩主斉彬は、追いつめられた琉球が西欧諸国と通諜して幕藩体制を脅かしはしないかと危惧し、阿部と謀を巡らせたという。調所は阿部の難詰を受け、嘉永元年(1848年)、琉球問題の責を負って江戸藩邸で毒をあおって死んだ。
<参考文献>
上原兼善『鎖国と藩貿易』1981年
島尻克美『「仏船来琉事件」の概要と研究史』1989年