明治10年(1877年)、清国廈門(Amoy)で流行していたコレラの侵入を危惧した内務省は、8月に「虎列刺病予防法心得」を公布し、避病院の設置や入港する船舶の検査等を指示した。ときの内務卿は大久保利通である。しかし、9月に西南戦争が終結すると、罹患した兵士たちの帰還により各地に流行が拡大した。五代は、同郷で当時堺県知事であった税所篤から「虎列罹病伝満、予防薬のため硫酸鉄千斤配分願う、今日百斤拝受答礼」という手紙を9月に受け取っている。硫酸鉄は消毒に使ったものだろう。
明治12年には明治最大の流行となり、「虎列刺病予防仮規則」や「海港虎列刺病伝染予防仮規則」などが相次いで制定された。これらの規則をもって、政府は船舶の検疫・停船を徹底しようとしたが、諸外国の反対により実施は不十分なままであった。
この頃の五代の書簡を見ると「予防戒心、我輩には感染心配なし」と言って、相変わらず仕事に邁進している様子である。明治11年に大阪商法会議所及び大阪株式取引所を設立したばかりで、多忙を極めていたのであろう。一方、「笠野悪病に斃れ遣憾」ともある。笠野とは薩摩出身の笠野熊吉のことで、明治9年に広業商会の社長となり、北海道開拓使と深く関わりがあった。大阪株式取引所の設立においても五代らとともに筆頭株主となっている。笠野熊吉がコレラで急死した後、かねてより広業商会の相談にあずかっていた五代が、ほぼその一切の面倒を見ることになったようだ。
また、明治12年の新聞には「五代友厚君は此程流行病予防の一助として金二百五十円を警察本署へ差し出されたり」という記事も見える。当時は警察が防疫・衛生の仕事を一手に担っていたため、五代は警察へ寄付をしたものだろう。警察の強権的なやり方には反発もあり、コレラ一揆やコレラ騒動なるものも起こっている。
五代が金銀分析所を立ち上げたときに世話になった紀伊國屋九里正三郎もコレラで死去している。多くの人々が身近な人をコレラで亡くしていた。
<参考文献>
大阪商工会議所編『五代友厚関係文書目録』1973年
松田道雄『日本疾病史』1969年
宮本又次『五代友厚伝』1980年
『朝日新聞 大阪』明治12年7月9日 朝刊