五代友厚 虎列剌(1)
Godai Tomoatsu, Cholera (1)

荼毘室混雑の図『箇労痢流行記』安政5年(京都大学附属図書館所蔵)Korori ryuukouki, 1858
荼毘室混雑の図『箇労痢流行記』安政5年(京都大学附属図書館所蔵)Korori ryuukouki, 1858

五代友厚は1836年に生まれ、1885年に亡くなっているが、この時代に広がった疫病といえばコレラであった。コレラが初めて日本に入ってきたのは、文政5年(1822年)で、インドで起こった流行がアジア、アフリカにまで波及したのである。浮世絵師歌川広重も安政のコレラで死去したという。

次いで日本で大流行したのは安政5年(1858年)で、異国船の出入りが多い長崎で6月ごろに発生し、8月には大阪、京都を経て東海道筋を江戸にまで到り病勢は激甚であったという。五代は安政4年より長崎海軍伝習所へ遊学していたから、ちょうどこのコレラの流行の中、伝習所での訓練に勤しんでいたことになる。この年の7月に薩摩藩主島津斉彬が急死し、10月になると伝習生たちは鹿児島への帰国を命じられた。斉彬の死因はコレラとも言われている。

藩命により再び長崎に戻った五代は、文久2年(1862年)4月、幕船千歳丸(せんざいまる)で上海に渡る。ここでもコレラが大流行しており、同じ船の日本人3名が犠牲になっている。遺体は上海の浦東に埋葬された。仲間の半数以上が下痢や嘔吐など体調不良に悩まされたというが、五代は精力的に上海の街を歩き回っており、罹患した様子はない。

次の大きな流行は、明治12年(1879年)であった。16万人の患者、10万人以上の死者が出たとされる。この年、アメリカの元大統領グラント氏が来日し、大阪では五代や鴻池、住友などの豪商がグラント氏饗応のためさまざまな準備をしていたが、グラント氏が乗船するリチモンド号は長崎から横浜へ直行してしまい、途中大阪に上陸することはなかった。西日本でひときわ猛威をふるっていたコレラを避けたものであろう。

<参考文献>
松田道雄『日本疾病史』1969年
『朝日新聞 大阪』明治12年8月15日 朝刊

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