長崎海軍伝習所の教育団長ホイセン・ファン・カッテンディーケ(Huyssen van Kattendyke)率いる咸臨丸が、天草富岡へ二度目の航海を行なったのは、安政5年4月26日(1858年6月7日)である。今回は鵬翔丸も共に帆走した。五代友厚が富岡に行ったとすれば、このときの航海だろうか。伝習所の訓練航海は、総じて幕生が優先で、諸藩の伝習生の参加はなかなか叶わなかった。このため西洋技術の導入に熱心な佐賀藩では、自藩の洋式船を用意して自前の訓練も行なっていた。また、佐賀藩の派遣する伝習生はみな蘭学に長け、他藩に比して習熟が早かったという。
梅雨時であったせいか、海に出ると船は豪雨と暴風にみまわれた。激しい揺れに生徒たちは皆船酔いにかかったという。大時化(しけ)の後ようやく富岡に入港すると、教官らと勝海舟をはじめとする伝習生たちは、今回も港近くの鎮道寺に宿泊した。勝海舟は、またもや寺の柱に落書きを残している。カッテンディーケは、勝海舟を「オランダ語をよく解し、性格も至って穏やかで、明朗で親切でもあったから、皆同氏に非常な信頼を寄せていた」とみる一方、「彼は万事すこぶる怜悧であって、どんな工合にあしらえば、我々を最も満足させ得るかをすぐ見抜いてしまった」とも言っている。
富岡には砂浜の連なる場所があり、一行は海水浴も楽しんだようだ。やがて天候が再び険悪となってきたため、5月1日(1858年6月11日)に富岡を出帆しすぐに長崎へ帰った。その折、海上で一隻の洋式船を見かけたが、マストに翻る旗は肥前のものだったという。長崎へ戻ると町は端午の節句の用意で忙しく、鯉のぼりが揚げられ、お祭り気分で満たされていた。カッテンディーケは、江戸から鵬翔丸の出帆を極力早めてくれとの報を受け取ったため、帰崎10日後に再び出帆し、江戸へ向かう鵬翔丸を咸臨丸に曳航させて鹿児島の山川へ向かった。
<参考文献>
カッテンディーケ著 水田信利訳『長崎海軍伝習所の日々』1964年
秀島成忠編『佐賀藩海軍史』1917年