
文久3年6月27日(1863年8月11日)に山川沖を通過した7隻の英国艦隊は、午後7時ごろ谷山郷平川村の七ッ島付近に投錨し、翌朝鹿児島城下まで航進した。薩英間で談判が行われるも進展なく、生麦事件の当事者である奈良原喜左衛門、海江田信義らは西瓜売り決死隊なる作戦を企て敢行するが、こちらも失敗に終わった。7月2日(8月15日)、イギリスは、五代友厚、寺島宗則(松木弘安)らが乗り組んでいた薩摩藩の蒸気船3隻を拿捕する行為に出て、五代と寺島はイギリス側の捕虜となる。
このときの様子を、駐日英国公使館付医官ウィリアム・ウィリス(William Willis)は次のように書いている。
・・・退去しない者が二人いたのです。(中略)一人は、第一回日本遣欧使節に随行して英国に行ったことのある男(寺島宗則)で、かなりよく英語を話しました。もう一人の船長(五代友厚)は、やせた、男らしい顔付きの日本人でした。
彼が言うには、自分は非戦闘員の商船の船長であって、イギリス艦船にたいして敵対行為をとりえず、また薩摩の命令がなければ汽船を放棄することはできない、とのことでした。あとになって、彼には汽船を爆破する意図のあったことがわかったのです。
これを機に、薩摩側の各台場が一斉に英艦への砲撃を開始した。激しい応酬の末、イギリス側は、旗艦ユリアラス(Euryalus)の艦長ジョスリング(Josling)とその副司令官ウィルモット(Wilmot)を砲弾で失った。ユリアラスは五代と寺島を乗せていた船である。7月4日(8月17日)朝、英艦は、戦死者11名の水葬を執り行うと、午後4時ごろ谷山沖を出港する。夕刻、山川より英艦退去の報あり、各持場にいた城下兵は帰家を許された。
五代友厚と寺島宗則は横浜で解放され、しばらく潜伏生活を送っていたが、元治2年の春にともに英国へ渡る。同行していた堀孝之の書翰によれば、帰国は慶応2年3月9日(1866年4月23日)で、この日山川へ投錨し、11日に鹿児島へ到着したという。
<参考文献>
公爵島津家編輯所編『薩藩海軍史 中巻』1928-1929年
日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料 第四巻』1974年
ヒュー・コータッツィ著『ある英国人医師の幕末維新 W・ウィリスの生涯』1985年