
五代友厚の父、直左衛門秀堯が編纂した三国名勝図会をみると、揖宿郡山川の章は、熊野権現社や海雲山正龍寺といった神社佛寺が多くを占める。中でも正龍寺は「薩摩文教の府」と呼ばれるほど学問的水準が高く、さらに山川港に出入りする異国船外交文書の授受にもあたるなど、非常に重要な役割を担っていた。
また、安政5年(1858年)に咸臨丸が山川へ来航し、オランダ人と接触したことをきっかけに、島津斉彬は山川に外国人接待所を建設する計画を持っていたともいう。当時、薩摩は琉球や奄美大島を貿易の足場とすべく内々に動きを進めており、山川もやがてそうした拠点のひとつとなる予定であったが、斉彬が同年夏に急死したことですべて水泡に帰したという。
文久2年(1862年)に生麦事件が起こると、薩摩藩は英艦戒厳のためさまざまな策を講じ、そのひとつとして山川成川村の川尻に火薬製造所を建てた。水利に富み、製造水車を設るに便なるのみならず、西南各郷運搬の便も亦宜し、というのが山川を選んだ理由であった。火薬製造所は、土堤をめぐらした道路と川と山に囲まれ、役員以外の出入りは禁じられていたため内部を窺い知ることはできなかったという。
文久3年6月22日(1863年8月6日)、いよいよ英国艦隊が横浜を出港し鹿児島へ向かう。御船奉行副役として長崎に在勤していた五代友厚は、急遽馬で鹿児島へ帰国した。英艦が6月27日(8月11日)午後2時過ぎに鹿児島湾口に入ると、沿岸の烽火台は次々と狼烟(のろし)を掲げ、号砲を放ち、谷山より山川までは西目諸郷の兵が警備に当たったという。このとき山川台場(津口番所付近)には7門、指宿拾貮町村台場(五人番付近)には5門の砲台が設置されていた。
<参考文献>
公爵島津家編輯所編『薩藩海軍史 上巻』1928-1929年
公爵島津家編輯所編『薩藩海軍史 中巻』1928-1929年
五代秀尭・橋口兼柄共編『三国名勝図会 八』1905年