
鹿児島の山川港は、切り立った火口壁に囲まれ波が入りにくく、荒天時も穏やかで天然の良港として古くから知られていた。海が深く大型船の碇泊できる。中世には南蛮貿易港、その後は薩摩藩による琉球貿易や砂糖輸送で栄えた。錦江湾の入口に位置するため、鹿児島城下に入るほとんどの船はここ通過することになる。
五代友厚は、安政4年(1857年)より長崎の海軍伝習所で航海術や測量を学んでいた。長崎海軍伝習所の練習艦である咸臨丸(原名 Japan)は、オランダ人教官の指導のもと勝海舟(麟太郎)を惣督として鹿児島を2度訪れているが、その都度山川港を経由している。
最初の寄港は安政5年3月15日(1858年4月28日)で、長崎から平戸、下関を経て山川へ着船した。このとき指宿に滞在中であった島津斉彬は、翌日自ら山川まで出向き、寺島宗則(松木弘安)を伴れて船内を隈なく視察したという。薩摩藩伝習生の乗組員は、成田彦十郎、加治木清之丞並びに久見崎水主2名とされており、五代友厚はこの航海には参加していなかったようだ。
二度目の来鹿は5月13日(1858年6月23日)で、明け方に山川に来航し同日夕方鹿児島へ入港した。帆船の鵬翔丸を長崎から江戸へ回航させるにあたり、外海まで蒸気船の咸臨丸に鵬翔丸を曳航させることが目的であった。咸臨丸は鵬翔丸と山川で別れ、3日間鹿児島に滞在した。島津斉彬は薩摩藩が牛根で建造した萬年丸に一行を迎え入れると、萬年丸の出来に関してオランダ人らに忌憚なき意見を求めたという。
<参考文献>
カッテンディーケ著 水田信利訳『長崎海軍伝習所の日々』1964年
公爵島津家編輯所編『薩藩海軍史 上巻』1928-1929年
鹿児島県ホームページ 山川港のまち歩きマップ
http://www.pref.kagoshima.jp/al01/chiiki/nansatsu/chiiki/machiarukiyamagawamap.html