五代友厚 浜崎太平次と紡績所(1)
Godai Tomoatsu, Taheiji and Cotton Mills (1)

プラット社の粗紡機
プラット社の粗紡機 Platt’s Soving Frame, c. 1858

第11代薩摩藩主島津斉彬は、安政5年頃より鹿児島近郊の田上、永吉に水車館を建て、水力による機械織布を試行し始めた。それより先、中村にも工場を作り、ここでは手紡と棉作を行っていた。

一方、指宿の豪商第8代濱崎太平次は、琉球から持ち帰った西洋糸を斉彬に献上する。この糸を見た斉彬は「将来、日本の膏血を絞るものは是なり」と慨嘆し、紡績織布の機械化を急がせたという。斉彬は特に帆布の生産に力を入れた。藩船が増えるに従い、他産地の高価な帆木綿や輸入綿帆布を購入し続けることは負担となっていて、藩内での自給を目指した。貿易や造船を家業とし30艘以上の大船を所持していた濱崎家にとっても、渡りに船といったところであろう。

濱崎家のヤマキは綿花も手広く扱っていた。1861年にアメリカで南北戦争が始まると世界的に綿花が不足する事態となり、ヤマキは繰綿をイギリスや香港へ向け輸出していたという。文久3年12月24日(1864年2月1日)、薩摩藩が幕府より借用してた長崎丸が長州藩により砲撃され、炎上、沈没したが、このときヤマキが載せていた繰綿も焼失した。翌年2月12日にも、ヤマキが大阪で買い付けた繰綿を積載していた嘉徳丸が長州藩の義勇隊に焼き討ちされている。襲撃の理由は薩摩藩の密貿易に対する義憤という。

斉彬の死後10年近くを経た慶応3年5月(1867年6月)、遂に鹿児島紡績所が完成する。設置した紡績機械は、五代友厚と新納久脩がイギリスで購入してきたプラット・ブラザーズ社(Platt Brothers Co.)製のものである。そして、翌年には鹿児島紡績所の機械を大阪の堺へ送り、堺紡績所を建設する運びとなった。濱崎家はこれら2つの紡績所の経営にも関わることになる。

Hamasaki Taheiji obtained western cotton yarn in Ryukyu islands and offered it to Nariakira Shimazu, the lord of Satsuma Domain. Once he confirmed the excellence of western cotton yarn, Nariakira urged his retainers to rush the development of spinning machine in their own country.

<参考資料>
絹川太一『本邦綿糸紡績史 第1巻』1937年
浜崎太平次顕彰会編『濱崎太平次傳』1935年
水田丞『幕末明治初期の洋式産業施設とグラバー商会』2017年

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