五代友厚 白糖工場(足跡篇)
Godai Tomoatsu, White Sugar Factories (Footprints)

幕末に薩摩藩が建てた白糖工場跡を訪ねて、奄美大島の龍郷町周辺を歩きました。

I visited Tatsugo-cho, Amami Oshima Island to see the old site of white sugar factory which was constructed by Satsuma Domain in the end of Edo period.

名瀬からしまバスに乗り、龍郷町の瀬留(せどめ)で降ります。行きは龍郷役場を通る東まわりのバスに乗り、帰りは西まわりで名瀬に戻りました。

しまバス「瀬留」停留所
しまバス「瀬留」停留所 “Sedome” Bus Sto

瀬留のバス停は教会の前にあります。

バス停と瀬留カトリック教会
バス停と瀬留カトリック教会 Bus Stop and the Sedome Catholic Church

瀬留カトリック教会は、フランス人宣教師ブイジュ神父により、明治41年(1908年)に建堂されました。

瀬留カトリック教会
瀬留カトリック教会 Sedome Catholic Church

正面外観は大きく改造されているものの、3廊式になった内部は創建時の面影をよく留めているとのことです。平成20年(2008年)4月に国の登録有形文化財に登録されています。

瀬留カトリック教会
瀬留カトリック教会 Sedome Catholic Church

奄美大島には、明治24年(1891年)より外国人宣教師が来島し、瀬留でも明治25年より布教が開始されたとのことです。慶応年間の白糖工場建設の折には、もちろんまだ布教は許されていませんでした。しかし、建築技師トーマス・ウォートルス(Thomas Waters)は熱心なキリスト教信者で、自ら布教を試みようとしたこともあったようです。

瀬留教会案内
瀬留教会案内 History of Sedome Catholic Church

奄美大島に来島した外国人宣教師は46名、その中で島に骨を埋めたのはブイジュ神父のみということです。ブイジュ神父は、1868年にフランスのエネルシャトー(Ainay-le-Château)に生まれ、1894年に来日しました。まず長崎に入り、その後宮崎、大分を経て、1899年から奄美大島で布教を始め、1922年に亡くなるまでここ瀬留に住み続けました。

ブイジュ師像
ブイジュ師像 Statue of Henri Leon Bouige

教会のそばに史跡案内板があります。白糖工場跡も記されています。

歴史とロマンの散歩道
歴史とロマンの散歩道 Historical Sites in Sedome, Tastugo

白糖工場跡は、瀬留カトリック教会のすぐ斜め向かい、道をはさんで北東方向にあります。白い看板が目印です。工場の遺構などはなく、ほぼ空き地のようになっています。

瀬留白糖工場跡
瀬留白糖工場跡 Old Site of Sedome White Sugar Factory

瀬留の工場は、波型トタン葺板壁、木造土間石敷で、煙突は1本、午前中に圧搾を行い、夕暮れまで製糖作業をしていたということです。

瀬留白糖工場跡
瀬留白糖工場跡 Old Site of Sedome White Sugar Factory

白糖工場があった当時、このあたりは瀬花留部(せけるべ)もしくは瀬留部(するぶ)と呼ばれていましたが、郵便の誤送や集落名の誤記などがあり不便だったため、大正8年に瀬留と改称されたそうです。

瀬留白糖工場跡
瀬留白糖工場跡 Old Site of Sedome White Sugar Factory

奄美大島に4か所つくられた白糖工場はすべて海辺にありました。船で搬出入ができることは絶対条件であり、また、搾り殻は海岸に捨て置いていたようです。

龍郷湾
龍郷湾 Tatsugo Bay

白糖工場跡の近くで白糖石を見かけました。白糖石は、白糖工場建設で使われていた切石で、加工しやすい溶結凝灰岩でできています。鹿児島から運び入れたと伝えられています。

転用された白糖石
転用された白糖石 White Sugar Stone

せっかくなので、同じ龍郷町にある西郷隆盛ゆかりの地も訪ねます。
瀬留から海岸沿いを北へ向かい、西郷松を目指します。バスで行く場合は、バス停「阿丹崎」が最寄りです。

西郷松
西郷松 Saigo Pine Tree

小さな松の木と石碑がありました。
元の西郷松は2011年頃に枯れてしまったということで、今は残っていません。現在、この場所は西郷松本舗というお菓子屋さんになっています。

西郷松
西郷松 Saigo Pine Tree

西郷松があった場所には、「西郷松」と「西郷翁上陸之地」、2つの石碑がありました。西郷松というのは、安政6年(1859年)、黒糖運搬船の福徳丸に乗った西郷隆盛が、阿丹崎から上陸した際、船を係留した松の木を呼び習わしたものです。大島で潜居を命じられた西郷隆盛は、文久2年(1862年)までの3年余りを龍郷で過ごしました。島では、菊池源吾を名乗っていました。

西郷松石碑
西郷松石碑 Monument of Saigo Pine Tree

西郷松からさらに海岸沿いを北上します。
「島のブルース歌碑」という碑の少し手前に、「西郷隆盛第二の潜居跡」という案内板がありました。実際に家があった場所は、道路から少し奥に入ったところのようです。

西郷隆盛第二の潜居地
西郷隆盛第二の潜居地 Old Site of Saigo Takamori’s Second Residence in Oshima

ここは、奄美大島で最も家柄の良い郷土格の龍家本家の屋敷があったところで、西郷隆盛はその離れに住んでいました。西郷は、龍佐栄志の娘、愛加那と結婚し、長男の菊次郎もここで生まれたということです。万延2年(1861年)に生まれた菊次郎は、やがて鹿児島の西郷本家に引き取られます。

西郷隆盛第二の潜居地
西郷隆盛第二の潜居地 Old Site of Saigo Takamori’s Second Residence in Oshima

菊次郎が生まれた後、西郷は新居を建て、妻子とともに移り住みます。その家が西郷南洲謫居跡として残されています。第二の潜居跡から北へ少し歩いたところです。龍郷の集落内にあります。

西郷南洲謫居跡
西郷南洲謫居跡 Old Residence of Saigo Takamori

「龍」の表札がかかっています。家そのものは、明治の終わりに再建されたものだそうです。

西郷南洲謫居跡
西郷南洲謫居跡 Old Residence of Saigo Takamori

西郷隆盛は、文久元年(1861年)暮れにこの家を完成させましたが、召喚状が届き鹿児島へ戻ることになったため、ここで生活したのはわずか2ヶ月間でした。石碑の碑文は、勝海舟が寄せたものだそうです。

西郷南洲謫居跡
西郷南洲謫居跡 Old Residence of Saigo Takamori

邸宅内には、西郷隆盛ゆかりの品などが展示されています。

西郷南洲謫居跡
西郷南洲謫居跡 Old Residence of Saigo Takamori

愛加那さんのご子孫の方が管理をされていて、いろいろな話を聞かせていただきました。

愛加那碑文
愛加那碑文 Monument of Aikana, Saigo Takamori’s wife in Oshima

最後に「西郷隆盛最初の潜居跡」へ行きました。西郷南洲謫居跡のすぐそば、同じ龍郷集落内の県道81号沿いにあります。島に到着して最初の2ヶ月を、美玉新行(鹿児島城下出身の流人)の空き家を借りて住んでいたそうです。

西郷隆盛最初の潜居地
西郷隆盛最初の潜居地 Old Site of Saigo Takamori’s First Residence in Oshima

<住所>
瀬留カトリック教会:大島郡龍郷町瀬留271-1
瀬留白糖工場跡:大島郡龍郷町瀬留
西郷松/西郷翁上陸之地:大島郡龍郷町久場886(西郷松本舗)
西郷隆盛第二の潜居跡:大島郡龍郷町龍郷
西郷南洲流謫跡:大島郡龍郷町龍郷166
西郷隆盛最初の潜居跡/美玉新行借家跡:大島郡龍郷町龍郷

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五代友厚 白糖工場(2)
Godai Tomoatsu, White Sugar Factories (2)

上野景範
上野景範 Kagenori Ueno

ウォートルス(Waters)の通訳には上野景範が選ばれた。上野は、弘化元年12月(1845年1月)、鹿児島城下塩屋町の生まれで、ウォートルスより3歳年下である。父親が清国語の通詞をつとめ、上野も6歳から清国語の稽古を始めたという。安政3年(1856年)、数えで13歳のときに藩命により長崎へ留学し、本間何某のもとで蘭学を学び、その後英学に転じた。すこぶる英敏な少年であったという。五代友厚は、安政4年より長崎へ遊学しており、上野と五代はほぼ同じ時期を長崎で過ごしている。

文久3年(1863年)の薩英戦争で捕虜になった五代は、放免後、武州熊谷に隠れ、文久4年正月に長崎へ戻ってきた。一方、上野は文久3年の暮れに、他の英学仲間と長崎からアメリカ船に乗り上海へ渡る。海外渡航はご法度の時代であったからいわゆる密航だが、通常の手続きをし船賃も払って乗船したらしい。ちょうど同じ時、幕府使節一行が渡欧途中で上海に滞在しており、上野らは使節の宿舎を訪ねてヨーロッパへの同行を直談判するが受け入れられず、表向きは漂流民として長崎へ送り返された。

寺島宗則(松木弘安)が五代の旅宿で上野に面会した際、「彼ハ何ノ為ニ長崎ニ来リ居ルカ」と五代に問うたところ、五代は、上海に脱走して帰って来たとは言わず「景範ハ心替リ多クシテ一事を貫ク事態ハサルヲ以困ルモノナリ」と答えたという。五代と野村宗七は、上野を庇護し、帰鹿の際も衣服と大小腰の物を与えたらしい。鹿児島に戻った上野は開成所で英語を教えていたが、元治2年(1865年)の春に大島の白糖工場へ派遣されることになった。

同じころ、寺島宗則と五代は、薩摩藩留学生を率いてヨーロッパに渡っている。上野にしてみれば複雑な思いもあっただろうが、明治になると新政府の外交官として上野は大いに活躍し、五代が斡旋した造幣機械購入の要務で香港に赴いたのを皮切りに、イギリスやオーストリアにも長く赴任していた。

Kagenori Ueno was sent to Amami Oshima with Thomas Waters as his interpreter in 1865. Ueno had been studying in Nagasaki since he was 11 year-old. Godai Tomoatsu was also in Nagasaki at about the same time as Ueno.

<参考資料>
大久保利謙「幕末の長崎と上野景範-長崎と薩摩の英学文化交渉史断片-」『大久保利謙歴史著作集5 幕末維新の洋学』

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五代友厚 白糖工場(1)
Godai Tomoatsu, White Sugar Factories (1)

奄美大島白糖工場
奄美大島の白糖工場(天保国絵図) White Sugar Factories, Amami Oshima (Tenpo Kuniezu)

元治2年(1865年)、薩摩藩は奄美大島の名瀬、瀬留、須古、久慈の4ヶ所で白糖工場の建設を始めた。前年に五代友厚が提出した上申書が契機になったものであろう。レンガを用いた工場を建て、蒸気機関を動力とする洋式の機械を設置するため、薩摩藩はアイルランド人のトーマス・ウォートルス(Thomas Waters)を建築技師として雇用する。

ウォートルスは1842年生まれであるから、五代より6歳ほど年下であった。父親は医師だったが早くに亡くなったため、ウォートルスは10代半ばからスコットランドの造船所や伯父ヘンリー・ロビンソン(Henry Robinson)が経営するロンドンのオフィスで製図技師として働いていた。

一方、商機を求めて香港や日本を訪れていた別の伯父アルバート・ロビンソン(Albert Robinson)は、長崎の英商トーマス・グラバー(Thomas Glover)を介し、甥っ子のトーマス・ウォートルスを技術者として売り込む。晴れて奄美大島の白糖工場建設を任されることになったウォートルスは、維新後も造幣寮、紙幣寮、銀座煉瓦街などの建設に携わり、当時の日本が求めた西洋建築技師としての仕事を確実にこなしていった。来日時、まだ経験の浅い23歳の若者であったことを考えると、見事な仕事っぷりであったといえよう。

ウォートルスの活躍には、彼の伯父たちが支えが陰にあったのかもしれない。ヘンリーやアルバートの父であり、ウォートルスの祖父であるジェームズ・ロビンソン(James Robinson)は、蒸気機関による製糖機械を開発し、1851年のロンドン万博に出展している。イギリスは、奴隷貿易とカリブ海の砂糖プランテーションに深く関わっていたため、こうした機械の需要が高かったのだ。ジェームズはテムズ川沿いのミルウォール(Millwall)に製鉄所も持ち、伯父たちはこれらの事業を引き継いでいた。

Satsuma Domain employed an Irish engineer Thomas Waters in 1865 in order to construct four white sugar factories in Amami Oshima.

<参考文献>
丸山雅子「建築めぐり ウォートルス伝 2」『ファインスチール 第59巻4号』2015年
Hugh Cortazzi ed., “Britain and Japan: Biographical Portraits, Vol. VII”, 2010
Meg Vivers, “The Role of British Agents and Engineers in the Early Westernization of Japan with Focus on the Robinson and Waters Brothers, The International Journal for the History of Engineering & Technology, 85:1”, 2015

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