明治2年に五代友厚が金銀分析所を設立した大阪の今宮周辺を歩きました。
I visited Imamiya, Osaka where Godai Tomoatsu built a smelting factory in 1869.
大阪地下鉄堺筋線の恵美須町駅で降ります。
恵美須町駅は、今やすっかり観光名所となった新世界の最寄り駅です。もとは畑や荒地が広がる場所でしたが、明治36年(1903年)年に開催された内国勧業博覧の会場となったのを機に、明治45年には通天閣やルナパークといった娯楽施設が建設され、新世界と称されるようになりました。恵美須町駅を出て南側に見える塔が通天閣です。
明治5年頃の今宮村周辺の地図です。緑地に(日本橋/長町)三丁メ、四丁メ、五丁メとある筋に現在は地下鉄堺筋線が通っていますので、そこから少し南に下がった辻が恵美須の交差点に当たります。中ほどに「戎宮」とあるのが今宮戎神社、「ヒロ田明神」とあるのが廣田神社、北西に「難波御蔵」とあるのが、現在のなんばパークスです。かつては南海ホークスの本拠地である大阪球場があった場所です。
今宮戎神社に向かって国道25号を西へ歩きます。右(南)に今宮戎神社という標識が出ている今宮戎駅東の交差点をさらに西へ進みます。
交差点を過ぎてすぐの国道25号沿い北側に小さな鳥居がありました。今は直接神社には通じていませんが、向こう側に今宮戎の玉垣が見えます。昔の地図にある戎宮は大通りに面していますから、今宮戎の鳥居はもとはこの位置にあったのでしょう。
五代友厚が岡田平蔵とともに開設した金銀分析所は、今宮戎神社の真南にあったといいます。鳥居をはさんで南側を望むと、今はこのようにビルがたち並んでいます。
摂津名所図会にある今宮戎神社です。絵の左側が南です。住吉、堺、紀州へ続く街道沿いにあり、大阪の南口として旅籠や商家がたち並びにぎわっていたといいます。松林や畑とおぼしき土地も多く見受けられますので、大阪の市街に比べるとまだそれほど人家が密集していたというわけではなさそうです。金銀分析所は、両替商紀伊国屋正三郎の別邸を借りて開設しています。かなり大きな屋敷だったのでしょう。
国道25号を渡って南側の様子です。金銀分析所がどこにあったのか、まだ探し当てられていませんが、明治初めに今宮村で人家があった場所は限られていますので、この周辺でしょうか。
金銀分析所の正確な場所は今のところわかりませんので、今日はまず今宮戎神社を訪ねてみます。これは東側の入り口です。
今宮戎神社は、推古天皇の時代に聖徳太子が建立した四天王寺の鎮護神として祀られたのが始まりと言われています。毎年1月10日前後に開催される「十日戎」の祭礼が非常に有名で、3日間で100万人を超える参詣者が訪れるそうです。現在は境内もそれほど広くありませんので、ここに100万人が押し寄せるとたいへんなことになりそうです。
今宮戎は、大阪の商業都市としての発展にともない、福徳を授ける神、商業の繁栄を祈念する神として篤く信仰されるようになり、江戸時代にはすでに現在の十日戎と同じかたちの祭礼が行われていました。五代友厚も訪れたことがあったかもしれません。
今宮戎の鳥居の向こうに丸に十字紋のマークが見えます。鹿児島となにか関係があるのでしょうか。
次に、今宮戎のすぐ北にある廣田神社を訪ねました。四天王寺の鎮守、今宮村の産土神で、創建年代は不詳ですが、古い地図にも今宮戎とともに描かれていますから、古い由緒を持つことは間違いありません。
廣田神社は、江戸時代には廣田の杜といわれ、うっそうとした森の中に社があったといいます。この辺りは松林に囲まれていて、廣田の森、蛭子の松原と呼ばれていたそうです。摂津名所図会に描かれた廣田社からもその様子がわかります。
廣田神社の境内に稲荷神社がありました。摂津名所図会の右端にも小さく「いなり」と書かれています。当時は本社と少し離れて松林に囲まれていたようです。
さらに北へ歩き、難波御蔵・難波新川跡を見に行きました。石碑は「なんばパークス」北側と「なんばCITY」南側の境付近にあります。難波御蔵はこの碑より南、新川はこの碑の西を流れていました。
難波御蔵は、享保17年(1732年)飢饉に際して設けられました。幕府直轄の米蔵が八棟置かれ、災害時の救援米貯蔵の役割を担っていたといいます。翌享保18年には、道頓堀の湊町付近から難波御蔵への水運をよくするため堀川が掘られました。それが難波新川です。ここまで来れば大きな水運があったわけです。
<住所>
今宮戎神社:大阪市浪速区恵美須西1丁目6-10
廣田神社:大阪市浪速区日本橋西2丁目4-14
難波御蔵・難波新川跡の碑:大阪市浪速区難波中2丁目10番(なんばパークス)