五代友厚 大島スキーム(1)
Godai Tomoatsu, Oshima Scheme (1)

蒸気機関による砂糖製造機
蒸気機関による砂糖製造機 1862年(Sugar Mill and Steam Engine, Wellcome Collection, 1862)

薩摩藩は、南西諸島の砂糖により巨利を得、藩財政を立て直すとともに倒幕資金を蓄えたとされる。薩摩藩が扱う砂糖は黒糖であったが、嘉永4年(1851年)に藩主に就任した島津斉彬は「世の開かるに従て黒糖の需要は減じ必ず白糖に帰すべし」といって、洋式製糖法による白糖の製出を鴨池の精錬所にて試み、集成館にも白糖製造所を設けたという。しかし、斉彬の死後、集成館の製造所は文久3年(1863年)の薩英戦争で灰燼に帰した。

五代友厚は薩英戦争で捕虜となり、解放後しばらく潜伏生活を送っていたが、その間の元治元年(1864年)に富国の策並びに英仏への留学生派遣に関する上申書を藩に提出した。五代は「近来西洋諸国にて、砂糖製法蒸気機械相開け、広大の利潤を得候」と述べ、西洋へ砂糖製法蒸気機関20揃(一揃に付洋銀4千枚づつ)を注文し、三島(奄美大島・徳之島・喜界島)と沖永良部島に据付けること、その際専門家を4人雇うことを進言している。また、島民の困窮ぶりにも触れ、蒸気船や蒸気機関を使うことにより改善されるとしている。

この翌年から奄美大島では白糖工場の建設が始まっており、五代の建白はすぐに受け入れられたものとみられる。機械の輸入には五代と親しかったトーマス・グラバー(Thomas Glover)が関与していただろう。一方、五代の上申書と時を同じくして、大島吉之助(西郷隆盛の変名)が奄美諸島の砂糖買上げについて「若しや異人共手を付候様之事も有之候はゞ、格別慈計之巧を以愚民を惑はし候」と建言しており、外国人が介入することに対し懸念を抱く人々が藩にいたことも否めない。

In the 1800s, Satsuma Domain was trying to improve their sugar manufacturing method. Godai Tomoatsu made a recommendation to the Satsuma Domain to import steam-driven sugar mills and set them up in the Amami Oshima island.

<参考文献>
鹿児島県維新史料編纂所編『鹿児島県史料 忠義公史料 第3巻』1976年
日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料 第四巻』1974年
樋口弘『日本糖業史』1956年
水田丞『幕末明治初期の洋式産業施設とグラバー商会』2017年

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