五代友厚 大島スキーム(足跡篇)
Godai Tomoatsu, Oshima Scheme (Footprints)

慶応年間に薩摩藩が建てた奄美大島の白糖製造工場の跡を訪ねました。工場の建設が始まったのは元治2年/慶応元年(1865年)で、同年、五代友厚はヨーロッパに渡り各地の産業、施設、工場などを視察しています。その前年、五代は白糖製造工場の設置について藩に上申書を提出しています。

I visited Amami Oshima to see the old sites of white sugar factories which Satsuma Domain started to construct in 1865. In the preceding year, Godai Tomoatsu had submitted a proposal for sugar factories to the Domain .

奄美市名瀬の金久にあった白糖工場跡周辺を歩きました。
まず奄美博物館で情報収集です。

奄美博物館
奄美博物館 Amami Museum

洋式の白糖製造工場で使われていたレンガです。当時の日本はまだレンガの製造技術が未熟だったため、耐火煉瓦はイギリスから輸入していたようです。

奄美博物館 れんが
白糖工場れんが White Sugar Factory Bricks

従来の黒糖製造で使われていた道具も展示されています。

製糖道具
製糖道具 Tools for Sugar Manufacturing

白糖工場があった場所や白糖石が残っている場所を博物館で教えてもらいました。さっそく工場跡に行ってみます。

白糖工場は、港近くの大通り(県道79号)沿いにあったそうです。シティーホテル奄美から北へ有村倉庫の端までが工場の敷地でした。かなり大きな工場だったことがわかります。板壁、亜鉛葺きの高層な建物で、レンガの煙突が2本あったといいます。

白糖工場跡 金久
白糖工場跡 Old Site of White Sugar Factory

白糖工場の西側、検察庁名瀬支部付近から北には薩摩藩の御仮屋、つまり代官所がありました。白糖工場は、大島の政治的中心地の一角に建てられたわけです。

検察庁名瀬支部
検察庁名瀬支部 Public Prosecutors Office

大通り(県道79号)に戻ります。倉庫の北端までが白糖工場でした。写真奥に見える茶色い建物(矢の脇町バス停付近)の手前の三叉路までです。昔はこの道路沿いに海岸線があったのでしょう。さとうきびを絞ったあとの搾殻は、海辺に捨てたと記録にあります。

白糖工場跡(有村倉庫付近
白糖工場跡(有村倉庫付近) Old Site of White Sugar Factory

有村倉庫の北端に、白糖工場で使われていた切石が今も残っています。地元では白糖石と呼ばれているそうです。鹿児島にも同じ形の切石がたくさん残っていて、たんたど石と呼ばれています。鹿児島に広く分布するこの溶結凝灰岩は、当時の技術でも加工がしやすく、石垣、石橋や台場など鹿児島ではさまざまに使われていました。奄美大島の白糖石は、鹿児島で切り出され運び込まれたものと伝えられています。

白糖工場の石積み
白糖工場の石積み Stone Walls of White Sugar Factory

白糖工場跡を過ぎ、北へ進みます。矢の脇町バス停を過ぎ、さらに酒造会社を過ぎたところを左(西)へ曲がります。酒造会社付近は御仮屋の一部でした。

矢の脇町バス停付近
矢の脇町バス停付近から北を望む Towards the North from Yanowaki-cho Bus Stopc

住宅と住宅のあいだに小さな稲荷神社がありました。

稲荷神社
稲荷神社 Inari Shrine

「明治初年の頃、(中略)大阪からご神体をお供してきて、ここに安置し、名瀬商人に布教した」とあります。「明治後期の頃は料亭関係者たちの信仰をあつめた」ということです。江戸時代より砂糖は大阪に集積されていました。大阪とのつながりを見い出すことのできる貴重な場所です。

稲荷神社の由来
稲荷神社の由来 History of Inari Shrine

稲荷神社のご神体はもうここにはありません。

稲荷神社
稲荷神社 Inari Shrine

鳥居の跡でしょうか。くぼみのある丸い石が二つ残っています。

鳥居の跡
鳥居の跡 Rimains of Torii Gate

石に刻まれた不思議なマーク。

石刻
石刻 Stone Engraving

この稲荷神社を創設したのは、大阪屋という呉服豪商、南野幸太郎の祖母とあります。そして、南野幸太郎は現在の林氏の敷地に住んでいたということです。稲荷神社の道を挟んで向かい側(南側)がその場所です。たいへん歴史がありそうな住宅が残っています。

大阪屋 南野幸太郎の邸宅があった場所
大阪屋 南野幸太郎の邸宅があった場所 Place where Minamino Kotaro’s Residence Used to Be

稲荷神社から細い道を少し登ったところに、白糖石がたくさん積まれたりっぱな石塀がありました。工場が閉鎖された後、不要となった石を転用したものでしょう。

白糖石の石塀
白糖石の石塀 Stone Walls built from “White Sugar” Stones
白糖石の石塀
白糖石の石塀 Stone Walls built from “White Sugar” Stones

屋仁川通りの一本北側の通りにも白糖石を使った石塀が見られます。さらにもう一本北側の通りから蘭館山に向かいます。

白糖石の石塀
白糖石の石塀 Stone Walls built from “White Sugar” Stones

小さな川に橋がかかっています。橋の向こうには黒糖焼酎の酒造場が見えます。この橋は、蘭館に通じるため蘭館橋と呼ばれていたそうです。

蘭館橋
蘭館橋 Rankan Bridge

酒造場の横にらんかん公園の入口があります。らんかんというのは、蘭館、つまり白糖工場の建設に関わった外国人の住宅のことです。

らんかん山
らんかん山 Mt. Rankan

白糖工場の建設に関わった外国人技師は、ウォートルス/ウォーターズ(Waters)とマキムタイラ/マッキンタイア(MacIntyre)で、彼らはイギリス人でした。しかし、当時の人々は、外国人を総称して「おらんだ」と呼んでいたため、ウォートルスらイギリス人の住居も「蘭館」と呼ばれていました。

らんかん山入口の説明版
らんかん山入口の説明版 Explanation Board of Mt. Rankan

緑におおわれた山道を登っていきます。

開けた場所に出ました。石碑が3つ建っています。この石碑は白糖工場に関係したものではありませんでした。

蘭館跡
蘭館跡 Old Site of Rankan (Foreigners’ Residence)

奥に見える階段を上ってみます。

蘭館跡
蘭館跡 Old Site of Rankan (Foreigners’ Residence)

さらに開けた場所がありました。階段の上と下、両方に建物が建っていたのでしょうか。かなり広い敷地だったようです。

蘭館跡
蘭館跡 Old Site of Rankan (Foreigners’ Residence)

名瀬の港もきれいに見えます。眺めのいい場所に蘭館を建て、丁重に外国人を迎え入れたのでしょう。この経験は、鹿児島の磯に紡績所を建てた折にもいかされたに違いありません。鹿児島紡績所の異人館は、日本で最も初期の洋風木造建築として、今も大切に保存されています。

ウォートルスは、気晴らしのため、ヨットでセーリングを楽しんだりもしていたようです。

<住所>
奄美市立奄美博物館:奄美市名瀬長浜町517(2019年5月~8月 リニューアル工事のため休館中)
有村倉庫:奄美市名瀬矢之脇町7-1
検察庁名瀬支部:奄美市名瀬矢之脇町1-2
奄美島開運酒造:奄美市名瀬矢之脇町10-12
稲荷神社:奄美市名瀬矢之脇町23-13
富田酒造場:奄美市名瀬入舟町7-8
蘭館山:奄美市名瀬金久町

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五代友厚 大島スキーム(2)
Godai Tomoatsu, Oshima Scheme (2)

琉球諸島諳射訳図
奄美大島 明治9年(琉球諸島諳射訳図より) Map of Ryukyu Islands, 1876

元治2年(1865年)、薩摩藩御用人松岡十太夫(政人)、英通事上野景範(敬介)、機械取仕立方ウォートルス(Thomas Waters)、白糖製造人マキムタイラ(MacIntyre)ら役人・諸職人120名以上が白糖工場建設のため奄美大島に渡った。

松岡十太夫は、仏船来琉時に琉球へ派遣されており、奄美・琉球に通じ、また外国人対応にも慣れていたものだろう。白糖工場設立後は鹿児島紡績所の総裁となった。この紡績所は、五代友厚がヨーロッパで購入した紡績機械を設置してつくった日本初の洋式紡績工場である。上野景範は、英学に通じ、五代とは長崎で懇意にしていた。慶応4年には、五代が斡旋した造幣器械購入のため香港へ派遣されている。ウォートルスもこの後同じく鹿児島紡績所や大阪の造幣局建設に携わる。

松岡らが大島へ出帆したのとほぼ同じ頃、五代は薩摩藩留学生を率いて欧州へ向かった。欧州各地を視察する中で、五代はシャルル・ド・モンブラン(Charles de Montblanc)と洋式機械の輸入並びに資源開発に関する契約書を結ぶ。うちひとつは砂糖製造機械に関するものであった。

一、砂糖製法蒸気機関 五ツ位
右は琉球属島の内に組立、既に製法相開居候間様の機関にして、帰朝の上絵図可相送候

琉球属島においてすでに工場は開業されており、帰国後図面を送るとある。

五代は、慶応2年2月(1866年3月)、ヨーロッパからの帰途、まだイギリスにいた町田久成に宛てて上海から手紙を書いている。「南島の白糖製法も二ヶ月余跡より本機関成就、製法相始り、最上の白糖出来候新報、昨日の急報に相見得」と喜び、グラバー商会(Glover & Co)のホーム(Ryle Holme)やグルーム(Francis Groom)らとシャンパンで祝杯をあげたという。

奄美大島の白糖工場は、金久(かねく)、久慈(くじ)、須古(すこ)、瀨留(せどめ)の4ヶ所につくられた。

In 1865, more than 120 workers and officials such as Matsuoka Jutayu, Ueno Kagenori, Thomas Waters, MacIntyre crossed the sea to build four white sugar factories in Amami Oshima. At around the same time, Godai Tomoatsu set sail for Europe and there, made a contract with Charles de Montblanc, to purchase steam-driven sugar mills for Oshima factories.

<参考文献>
日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料 第四巻』1974年
水田丞『幕末明治初期の洋式産業施設とグラバー商会』2017年
宮本又次『五代友厚伝』1980年

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五代友厚 大島スキーム(1)
Godai Tomoatsu, Oshima Scheme (1)

蒸気機関による砂糖製造機
蒸気機関による砂糖製造機 1862年(Sugar Mill and Steam Engine, Wellcome Collection, 1862)

薩摩藩は、南西諸島の砂糖により巨利を得、藩財政を立て直すとともに倒幕資金を蓄えたとされる。薩摩藩が扱う砂糖は黒糖であったが、嘉永4年(1851年)に藩主に就任した島津斉彬は「世の開かるに従て黒糖の需要は減じ必ず白糖に帰すべし」といって、洋式製糖法による白糖の製出を鴨池の精錬所にて試み、集成館にも白糖製造所を設けたという。しかし、斉彬の死後、集成館の製造所は文久3年(1863年)の薩英戦争で灰燼に帰した。

五代友厚は薩英戦争で捕虜となり、解放後しばらく潜伏生活を送っていたが、その間の元治元年(1864年)に富国の策並びに英仏への留学生派遣に関する上申書を藩に提出した。五代は「近来西洋諸国にて、砂糖製法蒸気機械相開け、広大の利潤を得候」と述べ、西洋へ砂糖製法蒸気機関20揃(一揃に付洋銀4千枚づつ)を注文し、三島(奄美大島・徳之島・喜界島)と沖永良部島に据付けること、その際専門家を4人雇うことを進言している。また、島民の困窮ぶりにも触れ、蒸気船や蒸気機関を使うことにより改善されるとしている。

この翌年から奄美大島では白糖工場の建設が始まっており、五代の建白はすぐに受け入れられたものとみられる。機械の輸入には五代と親しかったトーマス・グラバー(Thomas Glover)が関与していただろう。一方、五代の上申書と時を同じくして、大島吉之助(西郷隆盛の変名)が奄美諸島の砂糖買上げについて「若しや異人共手を付候様之事も有之候はゞ、格別慈計之巧を以愚民を惑はし候」と建言しており、外国人が介入することに対し懸念を抱く人々が藩にいたことも否めない。

In the 1800s, Satsuma Domain was trying to improve their sugar manufacturing method. Godai Tomoatsu made a recommendation to the Satsuma Domain to import steam-driven sugar mills and set them up in the Amami Oshima island.

<参考文献>
鹿児島県維新史料編纂所編『鹿児島県史料 忠義公史料 第3巻』1976年
日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料 第四巻』1974年
樋口弘『日本糖業史』1956年
水田丞『幕末明治初期の洋式産業施設とグラバー商会』2017年

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