五代友厚 浜崎太平次と紡績所(2)
Godai Tomoatsu, Taheiji and Cotton Mills (2)

大阪薩摩藩邸と薩摩屋
大阪薩摩藩邸と薩摩屋 Premises of Satsuma Domain in Osaka and the “Satsumaya”

濱崎家ヤマキの大阪支店は、立売堀の薩摩藩下屋敷そばに店舗を構え薩摩屋と称した。薩摩屋を瞥見した人物によれば「ヤマキは床下に設けてあった大きな穴の中にバラに入れた銭を箒木を以って掃き込んで居た」という。薩摩屋は、慶応3年(1867年)に開業した鹿児島紡績所と明治3年(1870年)に開業した大阪堺紡績所の綿糸布の販売と繰綿の買い入れを引き受けていた。

堺紡績所は、明治3年4月8日(1870年5月1日)にエンジンの試運転が始まり、五代もこの日紡績所を訪れている。同年7月16日に初めて綿糸が紡出され、22日に石河確太郎と薩摩藩諸士が集まり綿糸の売り捌き方について相談、24日に五代は託された綿糸の見本を藩侯に献上し、同日堺紡績掛を命ぜられた。堺紡績所の開業日は12月24日とされ、翌日五代は紡績所規則を制定している。

堺紡績所は明治5年に官営となり、鹿児島紡績所も明治4年の廃藩置県後は商社組織となった。しかし、どちらも一貫して島津家の掌管であることに変わりはなく、明治11年、島津家は年賦償却の条件で濱崎家に両工場を払い下げた。堺紡績所は濱崎の代理人、薩摩屋の総支配人であった肥後孫左衛門が実質的に経営した。肥後の未亡人によれば、隔日ぐらいで堺紡績所へ出勤する一方、銀行のことにも携わり、綿花を鹿児島へ送るようなこともしていたという。

ヤマキは明治に入り砂糖運輸の特権を失い、廃藩置県後は島津家との関係も薄れた。第10代濱崎太平次は遊蕩三昧となり、持船が次々と沈没する不幸も重なって、ヤマキの事業はとうとう頓挫し、紡績所も手放すことになる。濱崎太平次は明治21年に鹿児島を離れ、大阪で車夫として人力車を引く哀れな生活を送っていたらしい。そうした中むかし馴染みの芸妓と奇遇し、彼女は太平次を家に迎え入れると、太平次が63歳で瞑目するまで総てをみたという。

Hamasaki Taheiji was involved with Kagoshima Cotton Mill and Sakai Cotton Mill which Satsuma Domain built in the late 1800s. Both mills were installed British made spinning machinery that Godai Tomoatsu purchased in England in 1865.

<参考資料>
絹川太一『本邦綿糸紡績史 第1巻』1937年
浜崎太平次顕彰会編『濱崎太平次傳』1935年

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