鹿児島県指宿で濱崎太平次ゆかりの地を巡りました。濱崎家は薩摩藩の御用商人で、五代友厚らの渡英や、軍艦春日丸の購入などを援助したと言われています。
I visited Ibusuki, Kagoshima prefecture to see the places related to Hamasaki Taheiji, who was the wealthiest merchant in Satsuma Domain during the Edo period.
セントラルパーク指宿に向かいます。指宿駅の東側にある大きな公園で、指宿ビジターセンター(観光案内所)もあります。指宿はタバコ栽培が盛んだったところで、ここは元専売公社の土地でタバコ倉庫が建ち並んでいたそうです。
セントラルパーク指宿の西側に小さな公園が隣接しています。この湊児童公園の一画に第8代濱崎太平次正房の墓があります。第8代太平次は濱崎家の中でも最も知られた人物で、黒糖輸送や琉球貿易などにより巨万の富を築き、調所笑左衛門広郷が行った薩摩藩の財政改革を支えました。
大富豪の墓のイメージとは違い、一基のみひっそりと建っています。第8代濱崎太平次は、文久3年(1863年)、50歳のときに大阪で客死しました。薩英戦争の年です。遺骨はいったん大阪の西区にある竹林寺に密葬され、後に指宿に持ち帰り葬られたそうです。
濵崎家累代の墓はもともと湊南墓地にありましたが、湊南墓地は昭和30年に廃止され、濵崎家の墓は小田公苑墓地へ移設されました。しかし、第8代太平次の墓だけは生まれ育った湊地区に留めることとなり、湊南墓地廃止後に造られた湊児童公園の北隅に移設されたということです。
近くに第8代濱崎太平次正房関係文化財マップも建っていました。ここに紹介されている場所を回ってみようと思います。
濱崎太平次の邸宅があった場所へ向かいます。セントラルパーク指宿と湊児童公園の間の道をまっすぐ北へ3ブロックほど歩いたところにNTT西日本があります。ここが濱崎太平次の屋敷跡です。
濱崎太平次の屋敷には、「御座間」と称する島津の殿様専用の部屋がありました。第5代太左衛門が自宅内に貴賓室を新築し、島津家の別荘としたものです。島津家と濱崎家の関係はこれを機に深まりました。
屋敷の西側には殿様専用の門があり、この通りを御本陣馬場と呼んで庶民の通行を固く禁じたといいます。モンブランと五代友厚もここに滞在させてもらっていたのでしょうか。

濱崎太平次の屋敷跡から海に至る道は、碁盤の目に整備されています。第6代太平次の時代に町割(区画整理)が行われたそうです。幕末になるとこの辺りにはヤマキの倉庫群が広がっていたと伝わっています。
濱崎家の屋敷から一本東側(海側)の通りに、江戸時代から残るという白壁の蔵がありました。
「山三」の屋号が見えます。サマサンはヤマキと同じく海運業を営んでいたそうです。

濱崎家の屋敷跡を北へ少し進んだところで鬼瓦に出会いました。第8代太平次の弟、彌兵衛の屋敷にあった鬼瓦です。ちなみに、第10代太平次は彌兵衛の息子です。まだ若かった9代目、10代目を支えたのは、この濱崎彌兵衛でした。
ずいぶん古そうな祠と水路が残っています。水路の塀は、いわゆるたんたど石で鹿児島でよく見かける切石です。このあたりには、潟口から濱崎家の屋敷まで引かれていたと伝わる運河が、現在では細い水路として残されているそうです。
次に指宿港へ向かいます。
根占は、鹿児島の東側、大隅半島にある町です。指宿から船で渡って根占へ行くことができます。
港の先端、海のそばまで行くと第8代濱崎太平次の大きな銅像がありました。ヤマキの船に乗り、錦江湾を船出して行く太平次が、「我がふるさと」を指さす姿をイメージしているそうです。
太平次が乗る船にはヤマキの屋号も見えます。
銅像は、指宿の彫刻家木佐貫熙氏により作成され、平成9年7月に完成したそうです。鹿児島市の天保山公園にある調所笑左衛門広郷の銅像も同氏の作です。
石碑には「翁は常に時代の裏方に徹しながらも人材育成をすすめ、薩摩藩欧州留学生の派遣などに私心を捨てて尽力した」とあります。
銅像そばの高台に「濱崎太平次銅像建立協賛者御芳名」という石碑がありました。川崎重工業の名も刻まれています。川崎重工業は川崎造船所がもとになっており、川崎造船所を興した川崎正蔵は、10代の頃から10年ほど、ヤマキの長崎支店で店員として働いていました。川崎正蔵が東京に築地造船所、兵庫に川崎造船所を開業するにあたっては、同じ薩摩藩の松方正義や五代友厚の強力な後ろ盾があったと言われています。
港から少し北へ行くと稲荷神社があります。
この神社は、第5代濱崎太左衛門貞章が建立したと伝えられます。第5代太左衛門はたいへん信心深く、魚見岳の岩窟に私財を投じて風穴神社を建て、また、長井温泉には湯権現神社も創建しました。そもそも濱崎家の祖先は、国分正八幡・鹿児島神社(霧島市)の祠官といいますから、信心深いのも所以がないわけではないかもしれません。
第10代太平次の父彌兵衛は、本宅として稲荷神社畔の一角に広大なる家を構えていたといいます。モンブランや五代友厚が滞在したのはこちらの屋敷だった可能性もあります。
稲荷神社の説明版がかかっている赤い柵に囲われているのはアコウの木です。このアコウの巨木は、指宿市の指定保存樹木になっています。
神社の境内には、第8代濱崎太平次の大きな頌徳碑と紀功碑もありました。頌徳碑の除幕式は、太平次の七十年忌である昭和7年6月15日に行われ、遺族濱崎助次の娘で8歳のケイ子嬢の手により幕の絲は切って落とされ、揮毫は島津家第30代当主忠重公によるものだということです。
<住所>
第八代濱崎太平次正房之墓:指宿市湊2丁目4(湊児童公園内)
濱崎太平次の屋敷跡:指宿市湊2丁目19(NTT西日本)
山三の蔵:指宿市湊2-17-12
濱崎彌兵衛住居跡:指宿市湊2-24-20
第八代濱崎太平次像:指宿市湊3丁目(指宿港)
稲荷神社:指宿市湊4-17-1