五代友厚 指宿と浜崎太平次(2)
Godai Tomoatsu, Ibusuki and Taheiji (2)

第10代濱崎太平次
第10代濱崎太平次 Hamasaki Taheiji X

五代友厚は、慶応元年(1865年)の滞欧中にシャルル・ド・モンブラン(Charles de Montblanc)と合弁事業設立の条約を交わし、薩摩藩のパリ万国博覧会への出品も決めて、その手配をモンブランに委ねて帰国した。慶応3年4月に始まったパリ万博のため岩下方平ら薩摩藩使節団一行が渡仏したが、7月29日(1867年8月28日)にはモンブランと軍人、鉱山技師など8名の外国人を伴いマルセイユから帰国の途についた。五代は上海まで彼らを迎えに行き、9月22日(新暦10月19日)に長崎へ帰着している。

開港地長崎から外国人を連れ出す許可が長崎奉行河津祐邦から出ないまま、薩摩藩は11月8日(新暦12月3日)に外国人一行を春日丸に乗せて長崎を出航してしまう。春日丸は、元の名をキャンスー(Kiangsu)といい、英国で製造された高速の最新鋭艦であった。戊辰戦争を前に薩摩藩が16万両を出して新たに購入したのだが、資金が足りず、費用の半分は第10代濱崎太平次のヤマキから献金されたという。

鹿児島到着後、モンブランらは田ノ浦の清鏡院を寓居とした。モンブランが目論む軍制改革は機を逸しており、また薩摩藩は親英に傾きつつあり、モンブランは招かれざる客となっていた。間もなくモンブランは五代に伴われて指宿へ移り、濱崎太平次邸に逗留していたという。当時を知る故老の直話では、モンブランは巨躯で、広い敷布団で仰向けに大の字に寝るのが好きだったらしい。「あの和蘭(おらんだ)は仏蘭西の宮さんげなァ」とも言われていた。

慶応3年12月28日(1868年1月22日)、五代と新納久脩はモンブランを連れて開聞丸で兵庫に到着した。慶応4年1月3日(1868年1月27日)に鳥羽伏見の戦いが始まり、翌日には兵庫沖で阿波沖海戦が始まった。春日丸は幕府軍の開陽丸と激戦を繰り広げる。

Charles de Montblanc arrived in Nagasaki, Japan on 19th October 1867 and then moved to Kagoshima. Afterwards, Godai Tomoatsu and Montblanc were staying at Hamasaki Taheiji’s Residence in Ibusuki for a while.

<参考文献>
公爵島津家編輯所『薩藩海軍史(下巻)』1928‐29年
白井智子「幕末期の薩摩藩とお雇い外国人鉱山技師ージャン=フランソワ・コワニェの来日に関する新情報ー」『神戸大学国際文化学研究推進センター 2018年度研究報告書』2019年
浜崎太平次顕彰会編『濱崎太平次傳』1935年
宮永孝「ベルギー貴族モンブラン伯と日本人」『法政大学 社会志林 47巻2号』2000年

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