ウォートルス(Waters)の通訳には上野景範が選ばれた。上野は、弘化元年12月(1845年1月)、鹿児島城下塩屋町の生まれで、ウォートルスより3歳年下である。父親が清国語の通詞をつとめ、上野も6歳から清国語の稽古を始めたという。安政3年(1856年)、数えで13歳のときに藩命により長崎へ留学し、本間何某のもとで蘭学を学び、その後英学に転じた。すこぶる英敏な少年であったという。五代友厚は、安政4年より長崎へ遊学しており、上野と五代はほぼ同じ時期を長崎で過ごしている。
文久3年(1863年)の薩英戦争で捕虜になった五代は、放免後、武州熊谷に隠れ、文久4年正月に長崎へ戻ってきた。一方、上野は文久3年の暮れに、他の英学仲間と長崎からアメリカ船に乗り上海へ渡る。海外渡航はご法度の時代であったからいわゆる密航だが、通常の手続きをし船賃も払って乗船したらしい。ちょうど同じ時、幕府使節一行が渡欧途中で上海に滞在しており、上野らは使節の宿舎を訪ねてヨーロッパへの同行を直談判するが受け入れられず、表向きは漂流民として長崎へ送り返された。
寺島宗則(松木弘安)が五代の旅宿で上野に面会した際、「彼ハ何ノ為ニ長崎ニ来リ居ルカ」と五代に問うたところ、五代は、上海に脱走して帰って来たとは言わず「景範ハ心替リ多クシテ一事を貫ク事態ハサルヲ以困ルモノナリ」と答えたという。五代と野村宗七は、上野を庇護し、帰鹿の際も衣服と大小腰の物を与えたらしい。鹿児島に戻った上野は開成所で英語を教えていたが、元治2年(1865年)の春に大島の白糖工場へ派遣されることになった。
同じころ、寺島宗則と五代は、薩摩藩留学生を率いてヨーロッパに渡っている。上野にしてみれば複雑な思いもあっただろうが、明治になると新政府の外交官として上野は大いに活躍し、五代が斡旋した造幣機械購入の要務で香港に赴いたのを皮切りに、イギリスやオーストリアにも長く赴任していた。
Kagenori Ueno was sent to Amami Oshima with Thomas Waters as his interpreter in 1865. Ueno had been studying in Nagasaki since he was 11 year-old. Godai Tomoatsu was also in Nagasaki at about the same time as Ueno.
<参考資料>
大久保利謙「幕末の長崎と上野景範-長崎と薩摩の英学文化交渉史断片-」『大久保利謙歴史著作集5 幕末維新の洋学』