五代友厚 白糖工場(1)
Godai Tomoatsu, White Sugar Factories (1)

奄美大島白糖工場
奄美大島の白糖工場(天保国絵図) White Sugar Factories, Amami Oshima (Tenpo Kuniezu)

元治2年(1865年)、薩摩藩は奄美大島の名瀬、瀬留、須古、久慈の4ヶ所で白糖工場の建設を始めた。前年に五代友厚が提出した上申書が契機になったものであろう。レンガを用いた工場を建て、蒸気機関を動力とする洋式の機械を設置するため、薩摩藩はアイルランド人のトーマス・ウォートルス(Thomas Waters)を建築技師として雇用する。

ウォートルスは1842年生まれであるから、五代より6歳ほど年下であった。父親は医師だったが早くに亡くなったため、ウォートルスは10代半ばからスコットランドの造船所や伯父ヘンリー・ロビンソン(Henry Robinson)が経営するロンドンのオフィスで製図技師として働いていた。

一方、商機を求めて香港や日本を訪れていた別の伯父アルバート・ロビンソン(Albert Robinson)は、長崎の英商トーマス・グラバー(Thomas Glover)を介し、甥っ子のトーマス・ウォートルスを技術者として売り込む。晴れて奄美大島の白糖工場建設を任されることになったウォートルスは、維新後も造幣寮、紙幣寮、銀座煉瓦街などの建設に携わり、当時の日本が求めた西洋建築技師としての仕事を確実にこなしていった。来日時、まだ経験の浅い23歳の若者であったことを考えると、見事な仕事っぷりであったといえよう。

ウォートルスの活躍には、彼の伯父たちが支えが陰にあったのかもしれない。ヘンリーやアルバートの父であり、ウォートルスの祖父であるジェームズ・ロビンソン(James Robinson)は、蒸気機関による製糖機械を開発し、1851年のロンドン万博に出展している。イギリスは、奴隷貿易とカリブ海の砂糖プランテーションに深く関わっていたため、こうした機械の需要が高かったのだ。ジェームズはテムズ川沿いのミルウォール(Millwall)に製鉄所も持ち、伯父たちはこれらの事業を引き継いでいた。

Satsuma Domain employed an Irish engineer Thomas Waters in 1865 in order to construct four white sugar factories in Amami Oshima.

<参考文献>
丸山雅子「建築めぐり ウォートルス伝 2」『ファインスチール 第59巻4号』2015年
Hugh Cortazzi ed., “Britain and Japan: Biographical Portraits, Vol. VII”, 2010
Meg Vivers, “The Role of British Agents and Engineers in the Early Westernization of Japan with Focus on the Robinson and Waters Brothers, The International Journal for the History of Engineering & Technology, 85:1”, 2015

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