
五代は、慶応4年初めに徴士参与兼外国事務掛を仰せ付けられ、外国官として攘夷事件の対処や大阪の運上所の事務に精励していたが、次第に財政、金融、貨幣のことにも深く関わるようになる。貿易拡大を望む外国勢から日本の貨幣制度や商法の不備について抗議が相次ぎ、外国官はその対処に迫られたのである。
明治政府は、慶応4年閏4月(1868年6月)、会計官中に貨幣司を設けて三岡八郎(後の由利公正)らに貨幣改鋳を命じる一方、幣制を確立するため大阪に造幣工場の建設を決めた。五代は、器械の輸入や建築技師トーマス・ウォートルス(Thomas Waters)の雇用、外商からの地金買い入れなど、造幣局設立に大いに関与している。
大隈重信や五代ら外国官は三岡の政策に批判的で、明治2年2月(1869年3月)に貨幣司は廃止となり、三岡も辞任した。3月には大隈が会計官副知事兼任となり、造幣判事久世治作とともに貨幣の円形化と十進法の採用を建議している。同じ3月に五代も建議書を書いているが、五代は新貨の単位として所々「円」を使っていて、五代が円称呼の生みの親ではないかという見方もある。
4月に新政府が京都から東京へ移ると、五代も呼ばれて東上し、大隈重信邸に滞在した。築地梁山泊と呼ばれたこの屋敷には、伊藤博文や渋沢栄一ら多くの食客が常時滞在し、政治談義に口角泡を飛ばしていたという。
上京中の五代は、5月に会計官権判事を仰せ付けられ、横浜勤務を命ぜられる。大阪には井上馨、山口尚芳が配された。しかし、五代は外国事務の用向を理由に一時帰阪を願い出、7月に官を辞す。山口尚芳は同年4月に「伊勢屋願の件」で五代宛てに手紙を送っていた。伊勢屋は五代が金銀分析所を共同で始めた岡田平蔵の店の屋号で、この手紙には「古金類地金とも勝手売買の布告仰出されに付」などとある。また、6月には久世治作から五代に「貨幣分析所用具及硫酸室は九月ならでは着港せず」という書簡が送られている。
Godai Tomoatsu was firstly appointed a diplomat of the Meiji government, but he was gradually engaged in monetary affairs, too. As western powers demanded to revise the monetary system and commercial laws in Japan, diplomats also had to acquire familiarity with these issues.
<参考文献>
大阪商工会議所編『五代友厚関係文書目録』1973年
三上隆三『円の誕生(増補版)』1989年
宮本又次『五代友厚伝』1980年