五代友厚 金銀分析所(1)
Godai Tomoatsu, Smelting Factory (1)

『金銀精分』ハラタマより(from "Kingin Sibun" by K. W. Gratama)
『金銀精分』ハラタマより(from “Kingin Sibun” by K. W. Gratama)

明治2年7月(1869年8月)に官を辞した五代友厚は、その年の10月に金銀分析所を開設する。両替商紀伊國屋九里正三郎が大阪西成郡今宮村に持っていた別荘を借り、輸入器械を据え、各地から買い入れた古金銀貨幣をを溶解、分析するのである。ここでつくった地金を造幣寮に納め、五代は莫大なる利益を得たという。九里正三郎は、紀伊国屋という屋号からわかるように和歌山の出であったから、紀州街道の通る今宮村に別荘を持っていたのかもしれない。金銀分析所は十日戎で有名な今宮戎の真南にあったという。

五代は、岡田平蔵、阪井吾一らとともにこの事業を始めた。岡田は天保6年、江戸日本橋の生まれで、五代と同年である。金物問屋伊勢屋岡田平作の婿養子となり、横浜で外国人相手の売込商をしていた。伊勢屋は運上所にも出入りし、当時は随分羽振りがよかったようだ。しかし、蚕卵紙の売買を独占したかどで幕府の咎めを受け、横浜から大阪へ店を移す。大阪では新政府で金融財政政策を任されていた三岡八郎(後の由利公正)のもと、生糸や蚕卵紙の輸出に奔走し、唐金銀を持ち帰って、地金を貨幣司に納めることをした。岡田ら御用商人には正金と太政官札による買付け資金が前貸しされていたようだ。貨幣司への地金の納入高は、グラバー(Glover)らどの商人より岡田が抜きん出ていた。

五代は海外で金属精錬を視察し、造幣局の貨幣器械の輸入にも関わっていたし、運上所で棹金を扱った経験もあった。日本の金銀が海外へ流出することを危惧していたこともあり、五代はこうした事業にかねてより着目していたのだろう。岡田平蔵の商人としての手腕と資金を得ることで、五代は成功を確実に手中におさめたのである。

Godai Tomoats launched Kingin Bunseki-sho (Smelting Factory) in Osaka in 1868, immediately after he left his post in the Meiji government. He started his new business with an experienced merchant, Okada Heizo who had been handling metals for years.

<参考文献>
久保田高吉編『東洋実業家評伝 第1編』1894年
安国良一『大坂貨幣司の研究』「松山大学論集 第24巻」2012年
宮本又次『五代友厚伝』1980年