第13週「東京物語」では、五代友厚と酒を飲んでいた大久保利通が、「おいも、あと10年は気張ろう。そして、その先の10年でようやく新しい日本が出来上がる」と語った矢先、馬車で参内の途中、紀尾井坂で暴漢におそわれ凶刃に倒れる。実際に大久保がこの言葉を語った相手は、福島県令の山吉盛典であった。明治11年(1878年)5月14日のこの日、五代は東京築地の別宅に滞在していて、急報に接したのは朝食の最中だった。「しまった」と言い、玄関に出ると急に吐気をもよおし、食べたものをすべて吐き出したと伝えられる。
第14週「新春、恋のゆくえ」で、あさは五代に「大阪商法会議所を作りはって、会頭におなりになって・・・」、「大阪株式取引所の開業の日なんか、花火まで上がってお祭りみたいだしたわ」とその功績をたたえる。大阪商法会議所設立の認可が下りたのは明治11年8月27日、それより先の8月15日に大阪株式取引所の開業式が催され、実際に花火が上がり、川には大小遊船が往き交った。夏に行われる天神祭の船渡御が、この年の前後数年のあいだ中止となっていたため、人々は開業式の花火に久しぶりの納涼気分を味わったことだろう。
別のシーンで、五代は「福沢諭吉先生の紹介で東京から来た我が相談役です。今、商法会議所の中に商業を学べる学校を作りたい思ってまして・・・」と、同行者をあさに紹介する。これはおそらく新聞記者の加藤政之助で、五代系の新聞『大阪新報』に主幹として迎えられ、五代らとともに大阪商業講習所設立の発起人となった人物である。
第15週「大阪の大恩人」は、薩摩出身の黒田清隆や五代らが関わったとされる明治14年の北海道開拓使官有物払下げ事件を取り上げている。五代らの設立した関西貿易社への払い下げが決まると、肥前出身の大隈重信らが猛反対。また、『大阪新報』の加藤政之助をはじめとする諸新聞が五代や黒田を攻撃した。『大阪新報』は、三菱から金をもらって近県にまで出てしきりに扇動していると、五代は嘆いている。政府は払い下げを中止すると反撃に転じ、大隈ら反対派をことごとく免官し政治事件へと発展した。
第16週「道を照らす人」に描かれた通り、五代は晩年も神戸桟橋会社など各種事業に携わっている。一方で、明治13年頃からすでに心臓病の兆候があり、糖尿病を併発して目もかすむようになり治療を受けていたという。五代は明治17年末、大阪中之島に建てた新居に移り住むが、明治18年に入ってまもなく上京、夏にいったん帰阪するが、療養のため再び東京に滞在する。同年9月17日に閑職についていた黒田清隆を元気づけようと出かけたところ、その夜から病状が悪化したといい、9月25日午後1時に逝去した。
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