京都伏見で薩摩藩とゆかりのある場所を訪ねました。
I visited places connected with Godai Tomoatsu and Satsuma Domain in Fushimi, Kyoto.
京阪電車丹波橋駅からスタートします。丹波橋駅北側の東西に走る道を丹波橋通といいます。西にまっすぐ進むと伏見城の外堀であった濠川に突きあたりますが、ここに架かる橋が丹波橋です。今日は、駅の南側を東西に走る下板通を西へ向かいます。
濠川に架かる下板橋です。ちなみに、丹波橋の北に上板橋もあります。
下板橋を渡った先が薩摩藩の伏見屋敷のあったところです。濠川に面しているので舟で行きすることができます。慶応2年、寺田屋で襲撃を受け負傷した坂本龍馬は、薩摩藩の伏見留守居役大山成美(通称 彦八)により舟で救出され、この屋敷にかくまわれました。
諸大名は参勤交代の際も洛中に入ることはなく、通常伏見を通って江戸へ向かいました。天璋院篤姫も江戸へ輿入れの際、ここに滞在したといいます。
現在は、松山酒造と共同酒造という酒造会社の敷地となっています。ともに月桂冠グループの酒造会社だそうですが、月桂冠が持つ蔵は、昭和蔵が紀伊、北蔵が尾張、大賞蔵(現松山酒造)が薩摩の各屋敷があった場所ということです。
来た道を戻り、伏見板橋児童館角の三叉路を南におれます。伏見板橋児童館には弘化4年(1847年)建立の道標があり、「東 左り ふねのり場」「南 右 京大津みち」とあります。
細い道をしばらく歩くと、右手に薩摩藩ゆかりの大黒寺が現れます。大黒寺は薩摩寺とも呼ばれていました。
瓦にも祠にも島津家の家紋である丸十文字紋が刻まれています。
大黒寺は空海の開基、もとは長福寺といったが、島津家の守り本尊「出世大黒天」と同じ大黒天が祀られていたことから1615年に薩摩藩の祈願所と定められ、名も大黒寺と改められたとあります。
境内には、文久2年(1862年)の寺田屋事件で命を落とした有馬新七ら薩摩藩士九烈士の墓があります。西郷隆盛先生建之となっています。西郷は寺田屋事件の直後に徳之島、沖永良部島に遠島を命ぜられ、元治元年(1864年)に鹿児島へ戻った後上京します。もとは粗末であったものを、このとき現在の墓石に建て直したようです。大黒寺には、西郷や大久保利通らが国事を論じたという部屋も残っています。
薩摩藩藩士平田靱負の顕彰碑もありました。平田靱負は、宝暦治水(木曽・長良・揖斐三川の治水工事)で多くの死者を出し、費用がかさんだ責任をとって切腹したと伝えられます。鹿児島にも数カ所に銅像や義士碑があります。
大黒寺の向かいにあるのは金札宮という神社です。伏見で最も古い神社のひとつで、かつては御香宮と匹敵する規模と信仰をもっていたとのことです。「明治元年薩藩の士大山彦八氏より金燈籠を寄進」という記録があるそうです。大山彦八(成美)は負傷した伏見屋敷の留守居役で、西郷隆盛の妹と結婚しています。
大黒寺と金札宮に挟まれた細い道をそのまま南下すると、大手筋商店街に突きあたります。商店街を東に抜けたところが京阪電車の伏見桃山駅です。さらに近鉄電車の高架を越えると、御香宮神社の大きな鳥居が見えてきます。鳥居は紀州徳川家より寄進されたものだそうです。
なんと、鳥居のすぐ脇にはキリスト教会があります。教会の建物は、昭和11年(1936年)、宮大工により建てられた和風建築です。
鳥羽・伏見の戦いでは、この大手筋通を挟んで幕府軍と官軍が陣を構えたため主戦場となりました。明治天皇の陵である桃山御陵への参道になってからは、土産物店などが並び大いに賑わったとあります。
御香宮神社の表門です。伏見城の大手門を移築したもので、豪壮な構えです。
御香宮神社の境内図です。
御香宮の創建年は不明ですが、貞観4年(862年)に境内から「香」の良い水が涌き出たので、 清和天皇より『御香宮』の名を賜ったということですから、1150年以上前から存在していたということでしょう。
境内は広く、表門から本殿までかなりの距離があります。屯所とするに適した場所だったに違いありません。
拝殿は、寛永2年(1625年)の寄進によるもので、たいへん手の込んだ彫刻で埋め尽くされています。平成9年(1997年)に竣工した修理で極彩色が復元されたそうです。
本殿です。慶長10年(1605年)、徳川家康の命により造営されたもので、国の指定重要文化財になっています。豪壮華麗で桃山時代の特色をよくあらわしているということです。
明治維新 伏見の戦跡碑です。拝殿の東側にあります。昭和43年(1968年)に明治百年を記念して奉納されたもので、説明板には「内閣総理大臣 佐藤栄作書」とあります。
説明板によると、慶応3年12月7日明け方に、御香宮の表門に「徳川氏陣営」と書いた大きな木礼が掲げられたため、祠官三木善郷が社人を遣して御所へ注進すると、翌日薩摩藩の吉井孝助(友実)が来てこの札を外しここに部隊を置いた、ということです。また、慶応4年1月2日午後、鳥羽方面から砲声が聞こえてきたのをきっかけに、境内の東側台地に砲兵陣地を布いていた大山弥助(巌)の指揮により、大手筋を挟んで目と鼻の先にある伏見奉行所の幕軍に対し砲撃が開始されたと書かれています。
御香宮の境内に、竹田街道の車石と道標が置かれていました。
伏見から京に至る竹田街道や鳥羽街道には、牛車が通りやすいように車石が敷設されていて、単線のため、午前は上り、午後は下りと一方通行になっていたそうです。このあたりは低湿地帯で、雨が降ると道がぬかるみ牛車の車輪がとられてしまうため、石をレールのように敷いていたということです。
五代友厚が、天皇謁見を控えたフランス公使を伏見から京都まで護衛した日は大雨で、みな泥だらけになったと書いた記録があります。一行は馬か徒歩、そして荷物は牛車に運ばせたとなっているので、おそらく竹田街道を進んだのでしょう。
道標には「南 右 上醍醐黄檗道、左 大坂舟のり場、東 右 京大津道、左 奈良宇治」とあります。伏見がいかに交通の要衝であったかがわかります。
次に、鳥羽・伏見の戦いで幕軍の陣地となった伏見奉行所跡に行きました。御香宮神社から南へすぐのところで、現在は桃陵団地となっている場所です。
幕軍側には土方歳三の率いる新撰組や会津藩兵がいましたが、薩摩藩が放った御香宮からの砲弾により奉行所は焼け落ち、退却を余儀なくされました。
伏見奉行所跡碑の向かい側に、陸軍工兵十六大隊跡の碑があります。維新後の明治4年(1871年)、この地には大阪鎮台の歩兵第九聯隊分営が駐屯していました。次いで日露戦争後の明治末に陸軍工兵十六大隊が置かれたということです。
京阪電車 伏見桃山駅の東側に、明和元年(1764年)創業の魚三楼という料亭があります。鳥羽・伏見の戦い当時は官軍の台所番を勤めていたそうです。
この料亭の表の格子に残る疵は、鳥羽・伏見の戦いのときの弾痕といわれています。
魚三楼がある道は京町通です。伏見街道は、伏見に入ると京町通と呼ばれます。伏見から京へ続く道は、この伏見街道と竹田街道の主に2つでした。大手筋通は、かつて桃山城の大手門へ通じていた道です。
<住所>
薩摩島津伏見屋敷跡:京都市伏見区東堺町472( 松山酒造 共同酒造 )
道標:京都市伏見区御駕籠町91(伏見板橋児童館)
大黒寺:京都市伏見区鷹匠町4
金札宮:京都市伏見区鷹匠町8
日本聖公会桃山基督教会:京都市伏見区御香宮門前町184
御香宮神社:京都市伏見区御香宮門前町174
伏見奉行所跡、陸軍工兵十六大隊跡:京都市伏見区西奉行町1(桃陵団地)
魚三楼:京都市伏見区京町3丁目187番地