五代友厚 伏見と薩摩藩(1)
Godai Tomoatsu, Fushimi and Satsuma Domain (1)

有馬新七
有馬新七 Arima Shinshichi

伏見は京都に近いその立地から、幕末維新における数々の舞台ともなった。薩摩藩と関係の深い出来事のひとつは、文久2年4月23日(1862年5月21日)の寺田屋事件である。これは精忠組の有馬新七をはじめとする薩摩藩の尊皇攘夷派志士たちが、討幕挙兵を謀ろうと伏見の寺田屋に集結したところ、上京中の島津久光が送り込んだ鎮撫使と斬り合いとなり、切腹を含め志士側9名と鎮撫使1名の死者が出た事件である。

五代友厚はこのとき長崎にいて、事件直後の4月29日に千歳丸で上海へ向かっている。事件のことは、上海到着後に国元から送られてきた手紙で知ったようだ。五代は、千歳丸に同船していた高杉晋作にも事件のことを伝えている。これを聞いた高杉は慨然とし、直後に蘭館で地図と短銃を求めたという。

志士9名の墓は、薩摩藩の伏見屋敷近くにある大黒寺に残されているが、これは後に西郷隆盛が建てたものと伝えられる。精忠組は、西郷や大久保利通らが結成した『近思録』を輪読する会が発展したもので、寺田屋事件を起こした志士たちと西郷は深いつながりがあった。また、大黒寺は島津氏が祈願所と定めた薩摩藩とゆかりの深い寺である。

寺田屋事件はもうひとつあり、慶応2年1月23日(1866年3月9日)の伏見奉行による坂本龍馬襲撃事件がそれである。寺田屋は伏見の京橋近く、南浜にあった薩摩藩の定宿であるが、坂本もしばしば利用していたようだ。負傷した坂本は、寺田屋から北西方向にある濠川沿いの材木小屋に逃げ込み、その後薩摩藩の川舟で救出され薩摩藩屋敷に運ばれた。屋敷は京橋から北へ約1キロの濠川沿いにあって、舟による出入りが容易であった。事件の頃、五代はヨーロッパ視察からの帰国途上で、この約2週間後に鹿児島に到着している。

In the late Edo period, two Teradaya Incidents occurred in Fushimi, Kyoto.  Teradaya is Satsuma’s regular inn in Fushimi, so that Satsuma Domain is involved in both incidents.

<参考文献>
京都市歴史資料館 フィールド・ミュージアム京都
https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/index.html

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