
豊臣秀吉の築城ならびに宇治川の流路変替えにより、伏見には城下町が形成され、港が設けられた。江戸時代になって角倉了以が高瀬川を開削したことで、いよいよ漕運盛んとなり、伏見は大阪と京都を結ぶ交通の要衝となった。西国から江戸に向かう参勤交代では、諸国大名は京都中心部へ入らず、伏見宿を通って大津に向かうのが常であった。五代友厚は、上海から長崎に戻った直後の文久2年(1862年)夏に江戸との間を往復しているし、京阪間は幾度となく行き来していたから、都度伏見を通過したことだろう。
伏見城の南には、今は干拓されているが、巨椋池という広大な池が存在した。巨椋池には宇治川、木津川、桂川が流れ込んでいたが、豊臣秀吉はここに堤を築いて宇治川を巨椋池から切り離し、北へ迂回させてこれを伏見城下の外堀とするとともに伏見港を成立させた。また、別の堤を設けて奈良へ通じる新道を開いた。
伏見における川船の主な発着所は京橋で、北詰を京橋町、南詰を表町といった。また、京橋のまわりを東浜町、西浜町、南浜町、北浜町が囲み、本陣、脇本陣、旅籠が軒を連ねていた。薩摩藩の定宿、寺田屋があったのは南浜町である。京橋の東隣りに架かる蓬莱橋の南側は中書島と呼ばれ、かつては四方を川に囲まれた島であって、花街として栄えていた。
伏見は伏水とも記されるように、良質の伏流水に恵まれ、古くから酒造りが行われていた土地であったが、港町・宿場町として旅客の往来で賑わうようになると酒の需要も高まり、酒造家の数も増えていった。鳥羽伏見の戦いで薩摩藩が屯所とした御香宮神社は、境内に湧き出る水が大変よい香りを放ったことが名の由来とされている。
Fushimi developed as a castle town of Toyotomi Hideyoshi and became an important and prosperous riverport in the Edo period connecting Kyoto and Osaka. Fushimi is also renowned for its high quality water and sake breweries.
<参考文献>
三木善則『伏見港の「みなと文化」』「港別みなと文化アーカイブス」2011年
伏見町役場編『御大礼記念京都府伏見町誌』1929年