五代友厚 あさが来た<上>(足跡篇)
Godai Tomoatsu, Asa ga Kita (Footprints)

五代友厚の銅像は大阪に5体あります。南から順に大阪市立大学、大阪ビジネスフロンティア高等学校、大阪商工会議所、光世証券、大阪取引所にある銅像を見ていきます。

まず最初に、大阪市立大学杉本キャンパスを訪ねました。地下鉄御堂筋線あびこ駅もしくはJR阪和線杉本町駅が最寄りです。

大阪市立大学
大阪市立大学 Osaka City University
大阪市立大学 杉本キャンパスマップ
大阪市立大学 杉本キャンパスマップ Osaka City University Sugimoto Campus Map

銅像は商学部棟と文学部棟の間の小さな広場にあります。五代友厚は、明治13年(1880年)、新聞記者の加藤政之助や青年実業家の門田三郎兵衛らとともに大坂商業講習所を設立しました。設立にあたっては、鴻池、住友、藤田ら豪商の援助もありました。大坂商業講習所が、後の大阪商科大学、大阪市立大学へと発展します。銅像は、大坂商業講習所の流れを汲む商学部近くに建てられています。

大阪市立大学 商学部
大阪市立大学 商学部 Faculty of Business, Osaka City University

この五代友厚像は、高さ3.4メートル(本体2.3m+台座1.1m)、喜多敏勝氏の作です。台座正面の「五代友厚」の文字は五代自身の筆跡によるものだそうです。平成28年(2016年)に大阪市立大学同窓会により建立され、同年3月19日に完成記念行事が行われています。

五代友厚像 大阪市立大学 全景
五代友厚像 大阪市立大学 Godai Tomoatsu’s Statue at the Osaka City University
五代友厚像碑文 大阪市立大学 同窓会
五代友厚像碑文 大阪市立大学 Godai Tomoatsu’s Statue at the Osaka City University

右手に本を持ち、視線は遠く海外を見据え、進取の精神でグローバル感覚を身につけるようにとの願いがこめられているということで、学校にふさわしいどっしりとした雰囲気の銅像です。

五代友厚像 大阪市立大学 顔
五代友厚像 大阪市立大学 Godai Tomoatsu’s Statue at the Osaka City University
五代友厚像 大阪市立大学 後ろ
五代友厚像 大阪市立大学 Godai Tomoatsu’s Statue at the Osaka City University

次に、大阪市立大阪ビジネスフロンティア高等学校を訪ねました。最寄り駅は、JR環状線桃谷駅もしくは地下鉄谷町線四天王寺前夕陽ヶ丘駅です。

大阪ビジネスフロンティア高等学校
大阪ビジネスフロンティア高等学校 Osaka Business Frontier Senior High School

学校南側の道路から銅像の後ろ姿が見えます。

五代友厚像 大阪ビジネスフロンティア高等学校 後ろ
五代友厚像 大阪ビジネスフロンティア高等学校 Godai Tomoatsu’s Statue at the Osaka Business Frontier Senior High School

正面から見た五代友厚像です。銅像の大きさは大阪市立大学のものと同じくらいでしょうか。富山県高岡市でつくられたものだそうです。ちなみに、高岡市は高岡銅器に代表される鋳物の生産が盛んで、日本の銅像の多くは高岡市でつくられているそうです。

五代友厚像 大阪ビジネスフロンティア高等学校
五代友厚像 大阪ビジネスフロンティア高等学校 Godai Tomoatsu’s Statue at the Osaka Business Frontier Senior High School

大阪ビジネスフロンティア高等学校は、大阪市立の3つの商業高校を統合し、平成24年(2012年)に創設されました。統合前の商業学校のひとつである天王寺商業高等学校は、五代が設立した大坂商業講習所を源とします。大阪ビジネスフロンティア高等学校がある場所も、もとは天王寺商業高等学校の校舎があった場所です。この五代友厚像は、天王寺商業高等学校の創立100周年と大阪ビジネスフロンティア高等学校創立の門出を祝い、天商同窓会が建立したものだそうです。

五代友厚像碑文 大阪ビジネスフロンティア高等学校
五代友厚像碑文 大阪ビジネスフロンティア高等学校 Godai Tomoatsu’s Statue at the Osaka Business Frontier Senior High School

高校という場所にふさわしく、若々しい五代友厚像です。

五代友厚像 大阪ビジネスフロンティア高等学校
五代友厚像 大阪ビジネスフロンティア高等学校 Godai Tomoatsu’s Statue at the Osaka Business Frontier Senior High School

3つ目は、大阪商工会議所の五代友厚像です。最寄り駅は、地下鉄堺筋本町駅もしくは谷町四丁目駅です。大阪商工会議所は、松屋町筋と本町通が交わるところ、かつて西町奉行所があった場所にあります。

大阪商工会議所
大阪商工会議所 Osaka Chamber of Commerce and Industry

大阪商工会議所ビルには銅像が3体並んでいて、向かって左から初代会頭 五代友厚、7代会頭 土居通夫、10代会頭 稲畑勝太郎となっています。五代は、明治11年(1878年)、鴻池善右衛門や広瀬宰平ら財界有志15名とともに大阪商法会議所を設立し初代会頭となりました。

五代友厚像 大阪商工会議所 3体
五代友厚像 大阪商工会議所 Godai Tomoatsu’s Statue at the Osaka Chamber of Commerce and Industry

この銅像は、もともと堂島の大阪商業会議所の前庭に建っていたものです。90周年事業として昭和43年(1968年)に大阪商工会議所ビルディングが現在地に完成した際、この地に移建しました。

五代友厚像 大阪商工会議所 顔
五代友厚像 大阪商工会議所 Godai Tomoatsu’s Statue at the Osaka Chamber of Commerce and Industry

右足を半歩前に、右手の掌を上に向けているポーズは示現流の構えで、いざというときすぐ抜刀できる体勢になっているそうです。

五代友厚像 大阪商工会議所 正面
五代友厚像 大阪商工会議所 Godai Tomoatsu’s Statue at the Osaka Chamber of Commerce and Industry

堂島の大阪商業会議所に最初の銅像が建てられたのは明治33年(1900年)で、碑文の撰書は重野安繹でした。重野は薩摩藩出身の学者で、五代とも交流がありました。堂島の大阪商業会議所があった場所は、五代友厚が創設した精藍所「朝陽館」の跡地です。

五代友厚像碑文 大阪商工会議所 重野安繹
五代友厚像碑文 大阪商工会議所 Godai Tomoatsu’s Statue at the Osaka Chamber of Commerce and Industry

五代が、大正3年(1914年)に正五位を追贈されたことも書かれています。ここに名前がある龍作は五代の娘婿、小牧昌業は薩摩藩出身の学者で、官僚として北海道開拓使幹事なども務めました。

五代友厚像碑文 大阪商工会議所 五代龍作
五代友厚像碑文 大阪商工会議所 Godai Tomoatsu’s Statue at the Osaka Chamber of Commerce and Industry

明治33年に建立された銅像は、昭和18年(1943年)、戦中の金属類回収令によって献納され、一時は台石を残すのみでしたが、昭和28年に大阪商工会議所が創立75周年を迎えるにあたり再建されることになりました。再建された銅像は、京都の鋳金師河原金吾氏に創作を依頼したものだそうです。

五代友厚像碑文 大阪商工会議所 昭和二十八年
五代友厚像碑文 大阪商工会議所 Godai Tomoatsu’s Statue at the Osaka Chamber of Commerce and Industry

現在残っている五代友厚像の中では一番古いものです。実際の姿に最も近いのではないかと思います。

五代友厚像 大阪商工会議所 顔
五代友厚像 大阪商工会議所 Godai Tomoatsu’s Statue at the Osaka Chamber of Commerce and Industry

4つ目は、光世証券本社のエントランスにある五代友厚像です。北浜の大阪取引所のすぐそばです。「近代日本の先駆者として大阪経済の発展の基盤を築いた氏の功績を称えるとともに、その精神と勇気を今に伝えるため」ここに設置しているとのことです。

五代友厚像 光世証券ビル 説明板
五代友厚像 光世証券ビル Godai Tomoatsu’s Statue at the Kosei Securites Building

この銅像は、鹿児島在住の彫刻家中村晋也氏によるもので、鹿児島中央駅にある「若き薩摩の群像」の五代友厚像と同じ型で作製されています。

五代友厚像 光世証券ビル 正面
五代友厚像 光世証券ビル Godai Tomoatsu’s Statue at the Kosei Securites Building

英国滞在中に撮影した五代の写真に似ているようです。30歳頃の五代友厚をイメージしたものでしょうか。

五代友厚像 光世証券ビル 顔
五代友厚像 光世証券ビル Godai Tomoatsu’s Statue at the Kosei Securites Building

最後は、大阪取引所の五代友厚像です。大阪取引所は地下鉄堺筋線北浜駅の真上にあります。半円形のファサードは、昭和10年(1935年)に建てられた大阪株式取引所市場館の一部を残したものです。

五代友厚像 大阪取引所
五代友厚像 大阪取引所 Godai Tomoatsu’s Statue at the Osaka Exchange

明治11年、五代友厚は、株式取引所条例の成立を受けて、自ら大阪取引所の前身である大阪株式取引所の発起人となり、その設立に尽力しました。

五代友厚像 大阪取引所 下
五代友厚像 大阪取引所 Godai Tomoatsu’s Statue at the Osaka Exchange

この銅像は、平成16年(2004年)、大阪証券取引所の新ビル完成を機に、五代の功績をたたえ顕彰するため大阪取引所発祥の地に建てられたものです。同年12月1日に除幕式が行われました。中村晋也氏作で、高さは7.6メートルもあり、たいへん大きな銅像です。

五代友厚像 大阪取引所 横
五代友厚像 大阪取引所 Godai Tomoatsu’s Statue at the Osaka Exchange
五代友厚像碑文 大阪取引所
五代友厚像碑文 大阪取引所 Godai Tomoatsu’s Statue at the Osaka Exchange

大阪取引所の五代友厚像は威厳に満ちています。大阪株式取引所ができた年、五代は大阪商法会議所も設立しています。

五代友厚像 大阪取引所 顔
五代友厚像 大阪取引所 Godai Tomoatsu’s Statue at the Osaka Exchange

五代友厚が大阪経済界の発展にいかに寄与したかをあらわすような銅像であると思います。ちなみに、兜町の東京証券取引所にはこのような銅像はありません。

五代友厚像 大阪取引所 後ろ
五代友厚像 大阪取引所 Godai Tomoatsu’s Statue at the Osaka Exchange

 

<住所>
大阪市立大学:大阪市住吉区杉本3-3-138
大阪市立大阪ビジネスフロンティア高等学校:大阪市天王寺区烏ヶ辻2-9-26
大阪商工会議所:大阪市中央区本町橋2-8
光世証券:大阪市中央区北浜2-1-10
大阪取引所:大阪市中央区北浜1-8-16

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五代友厚 あさが来た<上>(2)
Godai Tomoatsu, Asa ga Kita (2)

大阪持丸長者鑑
大阪持丸長者鑑 天保十四年(大阪市立中央図書館所蔵) Osaka Mochimaru Choja Kagami, 1843

第5週「お姉ちゃんに笑顔を」で、五代友厚は「力を合わせて通商会社を作り、ビッグな取引ができるようにせんとあかんのです」「必ず政府もお助けいたします」と、大阪商人にカンパニー設立を促す。これは明治2年(1869年)設立の大阪通商会社・為替会社のことだろう。実際には、鴻池の山中善右衛門ら大阪の豪商6名が政府より上京を命ぜられ、東京で通商会社・為替会社の設立を懇々と勧説されたという。これに五代も同席していた。

また、五代が横浜の会計官権判事を任ぜられ、大阪商人らが五代を引き止めるシーンがある。五代へ横浜転勤の辞令が下りたのは明治2年5月で、これに対し大阪では151名もの連名で五代の復職を願う奉歎願候書付が出されたが、残留は許されなかった。

いったん横浜に赴任した五代であるが、第6週「妻の決心、夫の決意」で、「官に未練はあいもはん」と言って官を辞す。「大阪に戻った五代才助は、五代友厚と名を改め、大阪に時代の先端をゆく様々な会社を設立するなどして大阪商人たちから慕われるようになっていました」とナレーションにあるように、五代は大阪でまず金銀分析所を開設して財をなし、それを元手に鉱山を買い入れ、鉱山経営のための弘成館を明治6年に設立した。さらに活版印刷所堺紡績所などにも関わっている。

第7週「だんな様の秘密」では、五代が失踪した山王寺屋惣兵衛のことを気にかけている。山王寺屋はあさの姉の嫁ぎ先である。モデルとなった天王寺屋は、大阪有数の両替商であったが、銀目廃止や藩債処分で痛手を受け、また新しい時代の波にのることもできず、明治に入り廃業を余儀なくされた。

第8週「京都、最後の贈り物」は銀行がテーマである。五代は「今井は政府の信用が一番厚い。貨幣制度の改革に一役買って資金もぎょうさんあるし、長州藩から役人になった井上馨さんも顧問になっててつながりも深い。日本で最初に銀行を作るのは、この今井屋さんをおいて他にないいうことです」と言う。あさの実家である今井屋は、京都油小路の三井家がモデルで、東京に移ってからは小石川に居を構えた。三井は、明治5年に日本初の銀行建築「海運橋三井組ハウス」を完成させ、明治6年には小野組とともに日本初の銀行「第一国立銀行」を発足させる。そして明治9年、ついに日本初の民間銀行「三井銀行」を開業した。

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五代友厚 あさが来た<上>(1)
Godai Tomoatsu, Asa ga Kita (1)

堂島米市
堂島米市(摂津名所図会) Dojima Rice Market, Osaka

NHKの朝ドラ「あさが来た」でディーン・フジオカさん演じる五代友厚が話題となり、五代の功績が広く知られるようになった。ドラマと実際の五代友厚の人生がどのように重なるかをみてみたい。

「あさが来た」は、大阪の豪商加野屋へ嫁いだ白岡あさが、時代の煽りで傾きかけた家業を盛り立て、女性実業家として生き抜く様を描いている。五代友厚は大阪経済を牽引する一方、あさを指南する役どころとして登場する。あさのモデルとなった廣岡浅子は嘉永2年9月(1849年)生まれ、五代友厚は天保6年12月(1836年)生まれで、ともに幕末に生まれ、大阪で明治維新をむかえた。

第1週「小さな許嫁」に登場した五代友厚は、「上海行きで気が急いておったのかもしれん」「殿様の命により上海で買い付けた船の代金の用立てを頼みたい」と言っている。これは、文久2年4月(1862年5月)、千歳丸で上海へ渡航したときのことだろう。五代は東上途中の島津久光を追い、大阪で千歳丸乗船の許しを得たという。そして、上海ではジャウジキリー号という蒸気船を購入したとされる。

また、五代が大久保利通と酒を飲みながら話をするシーンがある。久光は文久2年3月に小松帯刀や大久保利通を率いて鹿児島を出発したから、2人は実際に大阪で会っていたかもしれない。しかし、大久保と五代が親しくなるのは大久保が洋行から戻った明治6年ごろからで、また、大久保は五代より5歳も年上であるから、この時点で友人同士のようなやり取りがあったとは考えにくい。

第2週「ふたつの花びら」では、五代はロンドンからあさに手紙を書いている。五代が外遊していたのは慶応元年(1865年)のことで、五代を含め19名が薩摩藩から密航というかたちでイギリスに渡っている。五代ら引率組はヨーロッパを視察し、産業機械や武器を買い付け、森有礼ら留学組はロンドン大学などで勉学に励んだ。

第3週「新選組参上!」と第4週「若奥さんの底力」で、五代はあさに再会し、大阪の米会所を案内する。後日、五代はあさの嫁ぎ先である加野屋(モデルは加島屋)を訪れ、あさの夫白岡新次郎(モデルは広岡信五郎)に「新政府の参与で、大阪府権判事に任命された」と自己紹介し、「夏には大阪の港も開港します」と言っている。五代が大阪に移り住んだのは慶応4年(1868年)の初めで、新政府の徴士参与職・外国事務局判事兼大阪府権判事として大阪開港の準備や外国人居留地の設置に奔走する一方、次第に金融や財政の仕事にも携わるようになる。

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