五代友厚 坊中馬場(2)
Godai Tomoatsu, Bouchubaba (2)

坊中馬場付近
坊中馬場付近(旧薩藩御城下絵図) The Vicinity of Bouchubaba

五代友厚が坂本豊と結婚し、鹿児島の大乗院坊中馬場に屋敷を賜ったのは、慶応3年(1867年)春のことであった。この結婚は五代の母親たっての願いを叶えたものであって、五代自身が望んでいたわけではなかったようだ。

五代はヨーロッパから帰国後も長崎に在勤し、慶応3年には小菅修船場の建造やイギリスで買い付けた武器の売りさばき、藩際貿易などに携わっていたから鹿児島にいることはほとんどなかった。また、同年4月から11月にかけて開催されたパリ万博に薩摩藩として参加するにあたり、出品物の準備にも奔走していた。薩摩藩の渡仏使節がシャルル・ド・モンブラン(Charles de Montblanc)や仏人技術者ジャン・フランシスク・コワニェ(Jean Francisque Coignet)を伴い帰国するのに合わせ、五代は8月に上海へ航し、彼らを迎えている。この年の4月に発生したいろは丸沈没事件では、坂本龍馬ら海援隊と紀州藩の仲介役として取りなしもしている。

年末の大政奉還、王政復古の大号令で大勢一変の兆しとなり、五代も京阪に赴いた。新納久脩やモンブランらとともに兵庫港に開聞丸を碇泊させていたところ、年が明けてすぐに兵庫沖で砲撃戦があり、鳥羽・伏見の戦いへと続く。同じく1月に神戸事件、2月に堺事件、同月末には京都で英公使ハリー・パークス(Harry Parkes)が襲撃されるなど外国人殺傷にからむ外交上の難題が次々と起こり、五代は徴士参与職・外国事務局判事として休む間もなく解決に奮闘した。

事件がようやく一段落すると、五代は外国事務局勤務暫時暇願を出し、慶応4年4月初めから1ヶ月ほど鹿児島に戻っている。「老母重病に付」ということである。この頃より、結婚したばかりの豊との離婚を妹夫婦や高崎正風、五代東之丞らに相談している。

Although Godai Tomoatu married and made his residence in Kagoshima, he travelled all over Japan through the year and spent most of time away from home.

<参考文献>
大阪商工会議所編『五代友厚関係文書目録』1973年
宮本又次『五代友厚伝』1980年

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