鹿児島の仙巌園、尚古集成館、五代友厚が関わった鹿児島紡績所跡などを訪ねました。
I visited Sengan-en Garden, Shusei-kan Museum and the old site of Kagoshima Cotton Mill in which Godai Tomoatsu was involved.
仙巌園の入口です。
入口を左手に正面奥に鶴嶺(つるがね)神社、左手に尚古集成館という配置です。

まず鶴嶺神社に行ってみます。

鶴嶺神社は、明治2年に島津氏歴代の藩主とその家族を祭るため鶴丸城の一画に建立され、大正6年に現在地に移りました。御祭神のひとり、持明院様(じめさあ)にあやかり、ここにお参りすると身も心も美しい女性になれると言われているそうです。


神社の一角に溶鉱炉跡があります。島津斉彬がオランダの書物を参考に嘉永5年(1852年)から建設を始め、安政元年(1854年)に完成しました。南九州の鉄鉱石を原料に鉄を生産していたということです。


仙巌園に入ります。美しい庭園とともに、斉彬が進めた集成館事業の遺産を見ることができます。

入口からすぐのところに反射炉跡があります。斉彬時代に造営された工場群の多くは薩英戦争で燃えてしまったため、実際に残っている遺構はたいへん貴重です。


反射炉は大量の銑鉄を溶かして鋳型に流しこみ大砲の砲身を造るための施設で、現在残っているのは安政4年(1857年)に完成した2号炉の基礎部分です。斉彬は翌安政5年に亡くなりました。五代友厚が長崎海軍伝習所で航海術などを学んでいたころです。

反射炉そのものはもうありませんが、再現模型がつくられていました。薩摩藩はオランダの書物を頼りに自力で反射炉を建設しようとしたということです。



示現流・自顕流展示室では、薩摩藩に伝わる両流派の剣術について知ることができます。写真は示現流の稽古で使われる立木です。大阪商工会議所前にある五代友厚像は、右足を半歩前に、 右掌を上に一寸前へ出す示現流の構えで、いつでも抜刀できる体勢になっているそうです。

仙巌園の作業車です。SHIMADZUマークが輝いています。

仙巌園からは桜島が実に美しく見えます。五代友厚と松木弘安は薩英戦争の際、この磯の浜から小舟に乗って重富沖に泊めてあった藩船に向かいました。


錫門です。朱色の門は身分の高い人しか使うことができず、この門も藩主とお世継ぎしか通ることができなかったといいます。屋根が鹿児島特産の錫で葺かれていることから錫門と呼ばれています。大河ドラマの撮影でも使われたそうです。

きのこのような形をした大きな灯籠がありました。鶴が羽をのばしたようにも見えるので鶴灯籠と呼ばれています。斉彬はこの灯籠にガスを通してガス灯の火を灯したということで、仙巌園の中で最も有名な灯籠となっています。

これは高枡という水道設備の一種です。江戸時代には、鹿児島城下の要所要所に石製の高桝が設置され、その下流に石囲みの水だめをつくって、そこに人々は水を汲みに行きました。


仙巌園内にある桜島ビューポイントというところから見る桜島がまた絶景です。

江南竹林です。江南竹は21代島津吉貴が琉球国から取り寄せ仙巌園に植えたのが始まりで、その後、孟宗竹として日本各地に広まり、たけのこ栽培も盛んになったということです。ちなみに、島津吉貴の初名は忠竹です。江南竹林の石碑の碑文を書いたのは五代友厚の父親である五代秀堯です。五代友厚は水墨画をたしなみましたが、竹を好んで描いたといいます。


次に尚古集成館を訪ねました。旧集成館機械工場の建物を博物館として使っています。集成館機械工場は薩英戦争後に建てられた石材の外壁をもつ洋風建築ですが、実際は石材と木材を組み合わせて造られています。内部は撮影できませんでしたが、集成館で製作した機械類や模型、島津家資料などが展示されていました。



明治天皇は明治5年(1872年)の鹿児島行幸でこの集成館機械工場にも立ち寄られました。

尚古集成館の南隣りに磯工芸館があります。現在は薩摩切子を中心とした鹿児島伝統工芸品の販売店になっていますが、この建物自体は明治42年に建てられた島津家吉野殖林所の管理事務所で、国の登録有形民俗文化財になっています。


磯工芸館の西隣りにも白い2階建ての洋風建築があります。これは明治37年、串木野に建てられた芹ヶ野金山の鉱山事務所の建物を移築したもので、現在はコーヒーチェーン店となっています。五代友厚も一時串木野に鉱山を所有していましたが、芹ヶ野金山は島津家の所有で、明治37年から五代友厚の娘婿である五代龍作が責任者となって近代化を進めました。この事務所も五代龍作が携わっていたときに建てられたものです。


磯工芸館の南側、JR日豊本線沿いの道路に面して鹿児島紡績所跡の碑があります。


鹿児島紡績所は五代友厚が渡英した際、マンチェスターのプラット・ブラザーズ社で購入した紡績機械を設置して造られた日本で初めての洋式紡績工場です。



鹿児島紡績所跡碑の銘文にも五代友厚の名前が刻まれています。


線路沿いを西に向かって歩くと、線路と道路が交差するあたりの手前に磯造船所跡の石碑があります。嘉永4年(1851年)、島津斉彬はここ磯海岸や桜島など数ヶ所に造船所を設け、雲行丸をはじめとする洋式船を完成させました。



磯造船所跡碑の脇道を入った奥に旧鹿児島紡績所技師館、通称異人館がありますが、その途中に明治天皇駐蹕跡碑がたっています。尚古集成館にある記念碑と同じく明治5年の行幸時のものです。明治天皇は大砲製造支配所の洋室で昼食を召し上がり、その址にこの石碑を建立したと書いてあります。洋室とは異人館のことで、当時は大砲製造支配所になっていました。異人館は当初現在地より海寄りにありましたので、この石碑は異人館のもともとの跡地にたっているということです。


旧鹿児島紡績所技師館にやって来ました。慶応3年(1867年)に建てられた国の重要文化財ですが、いつも混み合っている仙巌園とは対照的に人はまばらです。150年以上前の建物ですが、大変きれいに保存されています。



四面にベランダがあるコロニアル様式で、木造2階建て、洋風ですが骨組みは日本式で内部も完全な日本建築、寸法も「尺」単位という和洋折衷の建物です。ウォートルスの設計した大阪造幣局の泉布観にかたちはよく似ていますが、あちらは完全な煉瓦造りです。

ここに滞在していたイギリス人技師の写真がありました。鹿児島紡績所で雇われていたイギリス人技師は、司長ホームをはじめ計7人とされます。ここにはそれ以外の外国人も写っているようです。

五代友厚のパネルもありました。当然五代も完成した紡績所や異人館を見に来ていたことでしょう。

これだけ立派な異人館を建て、手厚くもてなしたにも関わらず、イギリス人技師たちは揃って1年ほどで鹿児島を離れてしまいます。その後、異人館は大砲製造支配所、西南戦争仮病院として利用され、明治15年には県立鹿児島中学校(後の第七高等学校造士館)の本館として鶴丸城跡に移設されました。昭和11年(1936年)に七高造士館の本館が完成したため、現在地に再移築されています。戦後は進駐アメリカ軍宿舎として使われたこともありました。




島津斉彬が造った集成館の工場群は薩英戦争でほとんど焼失してしまいました。その後に再建された集成館工場群の配置図です。

発掘調査箇所や遺構の復元図を描いたパネルもありました。

五代友厚や新納久脩がマンチェスターのプラット・ブラザーズ社を訪れ購入した機械について書かれています。

鹿児島紡績所は、始祖三紡績の中でも最初の紡績所です。2番目が堺紡績所(大阪)、3番目が鹿島紡績所(東京)です。堺紡績所は薩摩藩が鹿児島紡績所の経験を生かして大阪に設置したもので、石川確太郎が責任者となり、五代友厚も販売などに関与していました。

異人館内部の階段とポーチからかすかに見える桜島です。建設当初は海のすぐそばにあったわけですから、遮るものもなくさらに素晴らしい眺めだったことでしょう。


集成館エリアは見どころが多く、あっという間の一日でした。


<住所>
仙巌園:鹿児島市吉野町9700-1
尚古集成館:鹿児島市吉野町9698-1
スターバックスコーヒー鹿児島仙巌園店(旧芹ヶ野島津家金山鉱業事業所):鹿児島市吉野町9688-1
磯工芸館(旧島津家吉野殖林所):鹿児島市吉野町9688-24
鹿児島紡績所跡:鹿児島市吉野町9688-25
磯造船所跡:鹿児島市吉野町9685-11
明治天皇駐蹕跡:鹿児島市吉野町9685-29
旧鹿児島紡績所技師館:鹿児島市吉野町9685-15