五代友厚 坊中馬場(足跡篇)
Godai Tomoatsu, Bouchubaba (Footprints)

鶴丸城以前の島津氏の居城であった内城付近から、五代友厚が屋敷を賜った坊中馬場を通り、清水城のあった場所の手前まで歩きました。

I walked around Shimizu-cho including Bouchubaba where Godai Tomoatsu was given the residence by the load of Shimazu in 1867.

西郷隆盛を祀る南洲神社の大きな階段を下りたところからスタートします。南洲神社から国道10号の春日町交差点にかけての道は、南洲門前通りとして整備され、史跡の多いところです。

南洲神社
南洲神社 Nanshu Shrine

今和泉島津家本邸跡です。現在は個人所有となっています。今和泉島津のお屋敷自体は残っていませんが、りっぱな石垣が当時を偲ばせます。天璋院篤姫はここに生まれ、13代将軍徳川家定に嫁ぎました。

今和泉島津家本邸跡
今和泉島津家本邸跡 Old Site of the Principal Residence Of Imaizumi-shimazu Family
今和泉島津家本邸跡
今和泉島津家本邸跡 Old Site of the Principal Residence Of Imaizumi-shimazu Family

今和泉島津家本邸跡の東隣りが16世紀半ばから17世紀初めにかけて内城のあった場所です。城が鶴丸城に移ると、跡地に大龍寺が建てられました。現在は大龍小学校となっています。

大龍寺之遺址
大龍寺之遺址 Old Site of Dairyuji Temple
大龍寺と文之和尚
大龍寺と文之和尚 Dairyuji Temple and Bumshi Osho

大龍小学校にはたくさんの記念碑が残っています。

大龍小学校に建つ記念碑
大龍小学校に建つ記念碑 Monuments in the Dairyu Primary School
蓑懸松跡地
蓑懸松跡地 Old Site of Minokake Pine Tree
大龍小学校旧校門柱
大龍小学校旧校門柱 Old School Gate of Dairyu Primary School

大龍小学校の向かい側に砲術館跡碑がありました。島津氏第27代当主斉興の時代に造られた洋式砲術の訓練所がこの地にあったということです。

砲術館跡碑
砲術館跡碑 Monument of Gunnery Ruins
砲術館跡
砲術館跡 Gunnery Ruins

大龍小学校からさらに東へ進むと、またしても古く高い塀が続きます。中を覗くと豪奢な日本家屋が見えました。庭園も美しく整えられています。昭和14年(1939年)の建築で、豪商の別邸として建てられた後、割烹や宿泊所として使用され、現在は鹿児島県民教育文化研究所となっている建物です。この敷地はもともと重富島津家のものでした。

鹿児島県民教育文化研究所
鹿児島県民教育文化研究所
鹿児島県民教育文化研究所
鹿児島県民教育文化研究所

国道10号との交差点を左(北)の細い道の方に折れます。すぐに赤い社殿の春日神社が見えます。

春日神社
春日神社 Kasuga Shrine, Kagoshima

この神社は、島津氏の入薩より250年も前、長谷場氏が東福寺城を築いた時代に創建されたといいます。ここは東福寺城の船着場でもあったそうです。稲荷神を崇敬する島津氏も、藩費をもって春日神社の再建、修理を行うなど大切にしてきました。鹿児島五社のひとつに数えられます。

春日神社由緒
春日神社由緒 Kasuga Shrine, Kagoshima

境内のわきに薩摩水軍軍港跡の石碑がありました。薩摩藩が琉球王国に侵攻した際に使われた軍港とのこと。当時、ここは海岸線だったわけです。

薩摩水軍軍港跡碑
薩摩水軍軍港跡碑 Monument of Satsuma’s Naval Base
戦国時代の港
薩摩水軍軍港と春日神社 Satsuma’s Naval Base and Kasuga Shrine

春日神社の向かい側に建つ大きな石碑は、初代文部大臣森有礼の誕生地碑です。

森有礼誕生地碑
森有礼誕生地碑 Monument of Mori Arinori’s Birthplace

森有礼はここで生まれましたが、育ったのは五代友厚と同じ城ヶ谷です。森有礼は五代友厚より11歳年下で、五代が引率した薩摩藩英国留学生のひとりでもありました。

森有礼誕生地碑
森有礼誕生地碑 Monument of Mori Arinori’s Birthplace
極めつけのハイカラさん
森有礼誕生地 Mori Arinori’s Birthplace

ゆるやかな坂を道なりに進むと三叉路にでます。左に曲がると若宮公園があり、そこに大乗院橋の縮小復元があるそうです。しかし、今回は見逃してしまいました。右に曲がると稲荷川に出会います。黒葛原橋(つづらばし)という橋がかかっています。

稲荷川
稲荷川 Inari River
黒葛原橋
黒葛原橋 Tsuzura Bridge

橋を渡り、清水小学校を過ぎた角に赤い祠があります。仁王堂水と呼ばれる清水が湧き出るところです。

仁王堂水
仁王堂水 Niodo Water

この辺りは清水町といいますが、この水が町の名前の由来になっています。ここは大乗院の門があった場所で、仁王像が置かれていたため、仁王堂水と呼ばれるようになったとのことです。

仁王堂水の由来
仁王堂水の由来 History of Niodo Water

清水町は城下町鹿児島のはじまりの地と三国名勝図会に記されているそうです。また、篤姫や桐野利秋も喉を潤したであろうということです。今は据えつけられた蛇口から水が出てきます。たくさんのペットボトルを手に水を汲みに来ている人もいました。

清水町
鹿児島発祥の地「清水町」 Kagoshima’s Birthplace “Shimizu-cho”
仁王堂水
「篤姫」「桐野利秋」ゆかりの仁王堂水 Niodo Water and Pricess Atsu, Kirino Toshiaki

今も重要な水源地です。水道水にもなっていて、鹿児島市水道局が管理しています。

仁王堂水源地
仁王堂水源地 Niodo Water Fountainhead
仁王堂水説明板
仁王堂水説明板 Explanation Board of Niodo Water

ここから北へ向かう通りを坊中馬場、東西の通りを清水馬場と呼びました。

坊中馬場と清水馬場
坊中馬場と清水馬場 Bouchubaba and Shimizubaba

坊中馬場を北へ歩きます。
坊中馬場には10坊の大乗院支院が並んでいたそうです。しかし、大乗院は廃仏毀釈で最初に破壊された寺となり、明治2年(1869年)に廃寺となりました。

坊中馬場
坊中馬場 Bouchubaba

威光院跡と掲げている場所がありました。
慶応元年(1865年)に薩摩藩が土佐浪士や坂本龍馬を保護していた時期がありましたが、そのときの滞在先が威光院だったとのことです。

威光院跡
威光院跡 Old Site of Ikoin Temple

大乗院橋に到着です。
大乗院橋は、甲突川の五大石橋を架けた岩永三五郎が手がけた橋です。アーチ型の石橋で名橋の誉れ高かったといいます。残念ながら、昭和63年(1888年)の水害で流され、平成2年(1990年)にコンクリート橋に架け替えられました。

大乗院橋 Daijoin Bridge
大乗院橋 Daijoin Bridge
大乗院橋
大乗院橋 Daijoin Bridge

大乗院橋を渡った先にかつて大乗院がありました。大乗院の前は清水城だった場所です。

大乗院橋から見た稲荷川
大乗院橋から見た稲荷川 Inari River from Daijoin Bridge

昔の地図にある坊中馬場は寺院のみが連なっている通りなので、五代友厚が慶応3年(1867年)に拝領した屋敷がこの通りにあったのか、少し離れた別の場所にあったのかは定かでありません。

坊中馬場
坊中馬場 Bouchubaba

<住所>
今和泉島津家本邸跡:鹿児島市大竜町9-26
内城跡、大龍寺跡(大龍小学校):鹿児島市大竜町11-44
砲術館跡:鹿児島市大竜町6-11
鹿児島県民教育文化研究所:鹿児島市春日町4-60
春日神社:鹿児島市春日町4-38
薩摩水軍軍港跡:鹿児島市春日町4-38 春日神社境内
森有礼誕生地碑:鹿児島市春日町8
仁王堂水:鹿児島市清水町7-8
大乗院坊中威光院跡:鹿児島市稲荷町3-9
大乗院橋:鹿児島市稲荷町

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五代友厚 坊中馬場(2)
Godai Tomoatsu, Bouchubaba (2)

坊中馬場付近
坊中馬場付近(旧薩藩御城下絵図) The Vicinity of Bouchubaba

五代友厚が坂本豊と結婚し、鹿児島の大乗院坊中馬場に屋敷を賜ったのは、慶応3年(1867年)春のことであった。この結婚は五代の母親たっての願いを叶えたものであって、五代自身が望んでいたわけではなかったようだ。

五代はヨーロッパから帰国後も長崎に在勤し、慶応3年には小菅修船場の建造やイギリスで買い付けた武器の売りさばき、藩際貿易などに携わっていたから鹿児島にいることはほとんどなかった。また、同年4月から11月にかけて開催されたパリ万博に薩摩藩として参加するにあたり、出品物の準備にも奔走していた。薩摩藩の渡仏使節がシャルル・ド・モンブラン(Charles de Montblanc)や仏人技術者ジャン・フランシスク・コワニェ(Jean Francisque Coignet)を伴い帰国するのに合わせ、五代は8月に上海へ航し、彼らを迎えている。この年の4月に発生したいろは丸沈没事件では、坂本龍馬ら海援隊と紀州藩の仲介役として取りなしもしている。

年末の大政奉還、王政復古の大号令で大勢一変の兆しとなり、五代も京阪に赴いた。新納久脩やモンブランらとともに兵庫港に開聞丸を碇泊させていたところ、年が明けてすぐに兵庫沖で砲撃戦があり、鳥羽・伏見の戦いへと続く。同じく1月に神戸事件、2月に堺事件、同月末には京都で英公使ハリー・パークス(Harry Parkes)が襲撃されるなど外国人殺傷にからむ外交上の難題が次々と起こり、五代は徴士参与職・外国事務局判事として休む間もなく解決に奮闘した。

事件がようやく一段落すると、五代は外国事務局勤務暫時暇願を出し、慶応4年4月初めから1ヶ月ほど鹿児島に戻っている。「老母重病に付」ということである。この頃より、結婚したばかりの豊との離婚を妹夫婦や高崎正風、五代東之丞らに相談している。

Although Godai Tomoatu married and made his residence in Kagoshima, he travelled all over Japan through the year and spent most of time away from home.

<参考文献>
大阪商工会議所編『五代友厚関係文書目録』1973年
宮本又次『五代友厚伝』1980年

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五代友厚 坊中馬場(1)
Godai Tomoatsu, Bouchubaba (1)

大乗院
大乗院(三国名勝図会より) Daijoin, Kagoshima

鹿児島城(別名鶴丸城)は初代薩摩藩主、島津氏18代目当主の忠恒(家久)により慶長7年(1602年)に築城されたが、それ以前の鹿児島における島津氏の居城は、東福寺城、清水城、内城と遷り変わっている。

東福寺城があった場所は現在の鹿児島市清水町多賀山公園で、5代目当主貞久が南北朝時代に南朝側の矢上氏を攻め落とし、以降島津氏の拠点としたものである。

次の清水城は、現在の鹿児島市稲荷町の清水中学校に位置し、7代目当主元久が築城した。150年の長きに渡り島津氏の居城であったが、16世紀半ばに城が移ると、跡地には大乗院が建立された。大乗院は島津氏縁の寺として歴代藩主の尊崇厚く、薩摩藩で一、二を争う真言宗寺院となる。元久は島津氏の菩提寺として清水城の東に福昌寺も建立している。清水城の西には9代当主忠国のときに遷座し、島津稲荷とも呼ばれる稲荷神社がある。

内城は、15代当主貴久が清水城からわずかに海寄りの地に築いた城で、現在の鹿児島市大竜町大龍小学校の場所にあった。50年ほどで本城は鹿児島城に移り、内城の跡地には臨済宗に属する大龍寺が建てられた。

五代友厚は、慶応3年4月(1867年5月)に鹿児島郡坂元村坊中馬場に8畝3歩(約240坪)の屋敷を拝領した。坊中馬場は大乗院の前を流れる稲荷川に架かる大乗院橋から大乗院の外門にあたる仁王堂にかけての道筋のことで、大乗院の支院が10坊も並んでいたという。五代家の城ケ谷の屋敷は長男徳夫が継ぎ、友厚は次男であったから、坂本家のトヨを娶り分家してここに籍を移したのである。

Godai Tomoatu married Sakamoto Toyo in 1867 and made his residence in Bouchubaba, Kagoshima near the Daijoin Temple which was built on the old site of Shimizu Castle.

<参考文献>
宮本又次『五代友厚伝』1980年

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