五代友厚 羽島出航(足跡篇)
Godai Tomoatsu, Departure from Hashima (Footprints)

鹿児島中央駅から電車に乗って串木野駅で降り、羽島の薩摩藩英国留学生記念館を訪ねました。

I took a train to Kushikino station from Kagoshima central station and visited Satsuma Student Museum in Hashima.

鹿児島中央駅です。

鹿児島中央駅
鹿児島中央駅 Kagoshima Central Station

駅前東口広場に「若き薩摩の群像碑」という薩摩藩英国留学生たちを称える記念碑があります。これは道路側から駅を背にして撮った写真です。

若き薩摩の群像
若き薩摩の群像 Monument of the Satsuma Students

中央の座像が五代友厚像です。大阪の光世証券ビルにある友厚像も同じポーズのものかと思います。

若き薩摩の群像 五代友厚
若き薩摩の群像の五代友厚 Statue of Godai Tomoatsu

こちらは駅から道路側に向かって撮ったものです。ぐるっと17体の銅像が取り囲むかたちです。留学生は、新納久脩、五代友厚、寺島宗則(松木弘安)を含み総勢19名でしたが、ここにあるのは鹿児島藩士17名の銅像です。土佐藩士の高見弥一と長崎の通詞堀孝之は含まれていないそうです。

若き薩摩の群像
若き薩摩の群像 Monument of the Satsuma Students

これらの銅像は中村晋也氏によって製作され、1982年に建立されました。

若き薩摩の群像の銘板
若き薩摩の群像の銘板 Plaque, Monument of the Satsuma Students
若き薩摩の群像の銘板
若き薩摩の群像の銘板 Plaque, Monument of the Satsuma Students

鹿児島中央駅から鹿児島本線で串木野駅へ向かいます。駅も明治維新150年と大河ドラマ関連仕様です。

鹿児島中央駅
鹿児島中央駅 Kagoshima Central Station
鹿児島中央駅階段
鹿児島中央駅構内 Kagoshima Central Station

串木野駅に到着。鹿児島中央駅から1時間足らずです。
串木野には鉱山もあります。芹ヶ野金山では、明治の終わりに五代友厚の娘婿である五代龍作が責任者となって、西洋技術を取り入れるなどして近代化をはかりました。

串木野駅
串木野駅 Kushikino Station
串木野駅名所案内
串木野駅 Kushikino Station

駅の周辺には、薩摩藩英国留学生記念館のバナーがたくさんかかっています。

薩摩藩英国留学生記念館バナー

串木野駅からバス、もしくは車で海沿いを北西に進みます。
羽島の港の傍らにあるレンガ様の建物が薩摩藩英国留学生記念館です。

薩摩藩英国留学記念館
薩摩藩英国留学記念館 Satsuma Students Muserum

内部は撮影できませんでしたが、留学生らが羽島に滞在していたときの様子が展示されていて印象に残りました。帰国後ずいぶん経ってから、町田久成と思しき人物が再び羽島を訪れたようです。洋行を前に2ヶ月間滞在した羽島には特別な思いがあったのでしょう。町田久成は東京国立博物館の初代館長で、後に出家して僧正となった人です。最年少で渡欧し、後にアメリカに永住した長澤鼎に関する展示も多かったです。

薩摩藩英国留学生記念館の屋外施設から海を見渡すことができます。

薩摩藩英国留学生記念館屋外
薩摩藩英国留学生記念館
薩摩スチューデント出発の地
薩摩スチューデント出発の地 Satsuma Students Departure Point

東シナ海です。西は中国大陸です。ここなら人目につかず海に出て行くことも可能だったかもしれません。

羽島の海
羽島の海 The Sea from Hashima

記念碑に薩摩藩英国留学生19名の名前が刻まれています。

薩摩藩留学生記念碑
薩摩藩留学生記念碑 Monument of the Satsuma Students

五代友厚の石造りのレリーフもありました。似てる・・・かな?

薩摩藩英国留学生記念館 五代友厚
薩摩藩英国留学生記念館 五代友厚 Godai Tomoatsu at Satsuma Students Museum

弘化4年(1847年)、当時郡奉行書役助だった西郷隆盛が、萬福池築造工事の余剰金で羽島港を改修したといわれています。

羽島港修築記念碑
羽島港修築記念碑 Monument of Hashima Port Repairs

その際に造られたという玉石積みの防波堤です。

羽島の玉石積み防波堤
羽島の玉石積み防波堤 Breakwater in Hashima
羽島の玉石積み防波堤
羽島の玉石積み防波堤 Breakwater in Hashima

<住所>
若き薩摩の群像碑: 鹿児島市中央町1-1 鹿児島中央駅前東口広場
串木野駅:いちき串木野市曙町11760
薩摩藩英国留学生記念館:いちき串木野市羽島4930番地
羽島港修築記念碑:いちき串木野市羽島4930番地
羽島漁港玉石積みの防波堤:いちき串木野市羽島漁港

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五代友厚 羽島出航(2)
Godai Tomoatsu, Departure from Hashima (2)

薩摩藩英国留学生
後列右から 吉田清成、寺島宗則、鮫島尚信、町田申四郎、朝倉盛明
前列右から 長沢鼎、町田久成、町田清蔵

元治2年3月19日(1865年4月14日)の夕方、五代友厚と寺島宗則(松木弘安)、通訳の堀孝之を乗せた薩船が羽島に到着した。留学生の畠山義成はその船を雲行丸と日記に書き、町田清蔵(財部實行)は胡蝶丸だったと後に語っている。

2日後の3月21日、グラバー商会(Glover&Co.)の蒸気船オースタライエン号(The Australian)が姿を現した。船長以下73人が乗り、うち30余人は中国人だった。グラバーの手代ライル・ホーム(Ryle Holme)も留学生らの案内役として乗船していた。当時14歳だった町田清蔵にとって、ホームは生まれて初めて見る異国人で「おそろしき様な心地がした」という。また、五代から渡されたブランケット(毛布)も初めて見るものでうれしく大事にしたと語っている。

オースタライエン号には、まず新納久脩、五代、堀、朝倉盛明が乗船した。残りの留学生らが夕方、世話になった家を去るにあたり、当主より短冊に何か書いてくれろと頼まれ、羽島を離れ、日本を離れる直前の気持ちを各々和歌に詠んでいる。この日、一行は船で一泊し、3月22日の早朝、羽島から香港へ向け出発した。

羽島で船を待っていた17名のうち4名は町田姓である。彼らは兄弟で、なぜ町田家から4名も選ばれたのかは不明だが、四男である町田清蔵は「一行十七人(内一人に民部の三弟は羽島と云ふ所にて罹病し渡英を免ぜらる)」と語っているから、三男の町田猛彦は渡英しなかった。羽島で変死したとも言われている。

一行が香港に到着すると、薩英戦争で鹿児島を攻撃した英艦ユリアラス号(Euryalus)が碇泊していた。町田清蔵(財部實行)の回顧録にはこの船について「巡洋艦より私共の一行を招待して午後の饗応がありました」とある。

On 16th April 1865, “The Australian”, a steamship owned by Thomas Glover arrived in Hashima and picked up all the 19 Satsuma students including Godai Tomoatsu and Terajima Munenori.  The ship first set sail for Hong Kong in the early morning of next day.

<参考文献>
大久保利謙監修『新修森有禮全集第4巻』「畠山義成洋行日記抄」「財部實行回顧談」1994年

五代友厚 羽島出航(1)
Godai Tomoatsu, Departure from Hashima (1)

薩摩藩英国留学生
後列右から 名越時成、東郷愛之進、村橋久成、高見弥一
前列右から 中村博愛、松村淳蔵、森有礼、畠山義成

大目付だった新納久脩を団長に、英仏への留学生として選ばれた薩摩藩の16名は、元治2年1月20日(1865年2月15日)に鹿児島を発し、途中伊集院の妙円寺を詣り、さらに少し先の苗代川(現在の日置市東市来町美山)で一泊した。翌日、市来湊から船に乗り羽島浦に到着する。羽島は鹿児島城下から北西へ約50キロのところにある小さな漁村だが、 薩摩藩はここを長年密貿易港として使っていたようである。

このとき、五代友厚、寺島宗則(松木弘安)、通訳の堀孝之の3名は、長崎にあって留学生らの渡欧準備に奔走していた。寺島が江戸から長崎に至り五代と合流したのが元治2年1月4日(1865年1月30日)であったから、それまでも五代は余程準備を進めていたに違いない。留学生一行が乗る船は、英商トーマス・グラバー(Thomas Glover)が用立てた。グラバーは五代と非常に親しく、また、文久3年(1863年)には伊藤博文や井上馨を含む長州藩士5人の洋行を手引きした経験があるから五代も頼りにしたものであろう。

鎖国の時代、海外渡航は幕府により禁じられていたため、長州藩士や薩摩藩士のこうした洋行は、つまりは密航ということになった。薩摩藩の留学生たちも、表向きは甑島や奄美大島への視察という虚偽の辞令を受け、渡航中に用いる変名を与えられた。羽島に到着して、留学生たちはほどなく出帆の予定であったが、ヨーロッパ航路の都合で蒸気船の到着が遅れ、約2ヶ月のあいだ羽島に逗留することとなる。羽島では藤崎家、川口家という海沿いの商家に投宿した。留学生たちは、自分たちの本当の使命を秘して滞在するしかなかった。

While Godai Tomoatsu and Terajima Munenori were busy in Nagasaki for preparing Satsuma students to send to Europe, the students were waiting for the ship in Hashima, a small fishing village of Kagoshima,  for about 2 months until the ship from Nagasaki arrives.

<参考文献>
寺島宗則研究会編『寺島宗則関係資料集 下巻』1987年
薩摩藩英国留学生記念館ホームページ http://www.ssmuseum.jp