鹿児島市の甲突川西側を歩き、薩英戦争本陣がおかれていた千眼寺跡などを訪ねました。
I walked around the western side of the Kotsuki river, Kagoshima and visited the old site of Sengenji temple where the Satsuma’s headquarters for the Anglo-Satsuma war were placed.
甲突川にかかる西田橋を渡ります。西田橋は参勤交代でも使われた格式の高い橋で、かつては御門もありました。弘化3年(1846年)、岩永三五郎により木橋から石橋に架け替えられた際、橋は4連アーチでした。平成5年(1993年)に起きたいわゆる8.6水害後、この石橋は解体が決まり、平成10年に完成した現在の橋にアーチはありません。4連アーチの石橋と御門は、鹿児島駅に近い石橋記念公園に移設復元されています。



西田橋を渡って西田本通を西へ向かいます。薩英戦争の際、西田橋には島津又六郎が在陣し、西田橋付近から千眼寺までは旗本隊が警衛していたそうです。千眼寺は本陣がおかれていたところです。

しばらく歩くと日枝神社がありました。藩政時代、参勤交代の折には道中の安全を祈願して、ここで神楽を奉納したそうです。


急な階段を登った先に社殿があります。社殿は西南戦争のときに焼け、その後再興されたものです。


この寄進碑は寛政六年、つまり1794年のものです。日枝神社の創建年ははっきりしませんが、これより何百年も前のようです。

このあたりは常盤町というところで、日枝神社前のバス停の名前も「常盤」です。

バス停の横に「常盤町内史跡一覧」という案内板がありました。ガイドブックなどであまり紹介されていない見所もたくさんありそうです。



日枝神社前を右(北)に折れ、薩英戦争本陣跡に向かいます。

ここは千眼寺のあったところですが、現在は一般の住宅になっていて、石垣の上に石碑と説明板がたっています。草木が繁っている場所にひっそりとたっているので、うっかりすると見過ごしてしまいそうです。島津久光、忠義親子は、文久3年6月29日(1863年8月13日)の午後4時ごろ、こちらに本陣を移しました。海から近い鶴丸城は、大砲の射程距離に入ってしまうためです。



薩英戦争本陣跡の史跡表示の少し先に、千眼寺跡の表示もありました。千眼寺の山の中腹にある望遠台は、湾内が一望できて交戦を瞰視するのに最も適当な地であったということです。

少し離れたところから千眼寺跡を見ると、切り立った崖がせまり、確かに本陣にふさわしい場所のような気がします。久光、忠義両公とも、自ら望遠台に立ち戦況を見ていたということです。

そのまま山沿いを道なりに進むと西郷家の墓地があります。西郷隆盛の両親をはじめ、隆盛と愛加那のあいだに生まれた菊次郎もここに眠っているそうです。



さらに少し北の原良にある小松帯刀の別邸跡にも行ってみました。小松帯刀は、薩英戦争後潜伏中の五代友厚の境遇に同情し、上海に渡航してはどうかと密かに資金を用意しましたが、五代は辞して受け取らなかったといいます。


別邸跡は、今は一般の住宅となっていて中に入ることはできませんが、石垣などからりっぱな屋敷であったことが想像できます。坂本龍馬もここに宿泊したことがあるといわれています。


ここらで温泉に。小松帯刀別邸のすぐそばです。

<住所>
日枝神社:鹿児島市常盤町324
薩英戦争本陣跡、千眼寺跡:鹿児島市常盤2-4-3
西郷家之墓:鹿児島市常盤2丁目2
小松帯刀別邸跡:鹿児島市原良4-16-16
はらら温泉:鹿児島市原良町4-2-7