
文久3年7月2日(1863年8月15日)、寺島宗則(松木弘安)と五代友厚は蒸気船の引き渡しを拒んで船に残り、自主的にイギリス側の捕虜となった。英人は2人を旗艦ユリアラス(Euryalus)に移すと、通訳として横浜から連れてきた清水卯三郎と引き合わせる。清水卯三郎は武州羽生村の出身で、商人ながら蘭学に志があり、英語を学び、後にパリ万博で日本茶屋を出店したりもしている。
清水が甲板の下に降りて行くと、寺島と五代がうちしおれて片隅にうずくまっていたという。清水と寺島は以前より交流があったので、寺島は清水の顔を見るとうれしそうに微笑んだ。清水は、2人を助ける手立てとして江戸に行くことを提案する。さらに語らうも五代はなお心許なく思っていたようで「ここまでは来たものの、この先どうすればよいのか」と独り言を漏らすのを寺島が聞きつけ「ほとぼりが冷めるのを待って出ていけばよい、それまでは自らの力を尽くして計らえばよい」と言い、五代も納得する。
明くる日も朝から大砲が飛び交い、さながら山も崩れ海もひっくり返らんばかりであったという。清水は取り置いておいたラム酒を気つけとして寺島と五代にも与える。3人は打ち解けて何くれとなく語り合い、「船を奪われたときは腹立たしく無念やる方なく、火薬蔵に火を放ち轟く間に死のうと思ったが、良い折がなくて果たせなかった」と五代が言うと、寺島はここでも落ち着いて「そう思ったからつきまとって妨げたのだ、あそこで死んでは犬死である」「このようなこともあろうと25両を持っているから当分は凌げるだろう、そのうち道も開けるだろう」励ました。
7月4日、少なからぬ死者と負傷者を出した英国艦隊は、寺島と五代をユリアラス(Euryalus)に乗せたまま鹿児島を離れ、帰航の途についた。通訳の清水は、横浜到着後も何彼と労を惜しまず2人を助けた。
Godai Tomoatsu and Terajima Munenori (Matsuki Koan) refused to get off the ship and voluntarily surrendered to the British side during the Anglo-Satsuma war. On 17th August 1863, the British sailed back to Yokohama, taking Godai and Terajima with them.
<参考文献>
柴田宵曲編『幕末の武家』1965年
日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料 第四巻』1974年