鹿児島市内で薩摩藩英国留学生にゆかりのある地を訪ねました。
I visited several places associated with the Satsuma Students who sailed to study for Europe from Kagoshima in 1865.
鹿児島市長田町にある五代友厚誕生地(城ケ谷 (足跡篇)参照)からスタートします。現在残っているのは石垣のみですが、敷地は整備されて公園になっています。

このあたりは明治初めまで城ケ谷と呼ばれていました。谷筋を10分ほど東へ歩くと、左手に横山安武・森有礼成育之地と書かれた標柱がたっています。横山安武と森有礼は実の兄弟です。森有礼は慶応元年(1865年)、薩摩藩英国留学生として五代友厚らとともにイギリスに渡り、明治元年に帰国しました。同じ郷中方限の五代徳夫・友厚兄弟から大きな影響を受けたといわれています。渡英時、五代友厚は29歳、森有礼は17歳でした。兄の横山安武は明治3年、新政府の腐敗と征韓論への反対を建言して割腹自殺しています。森有礼は明治22年に国粋主義者により暗殺されました。

さらに道なりに進むと、五つの道が交わる場所に出ます。バスが通る一番広い道路が冷水街道です。交差点角にあるコンビニエンスストア前のバス停は「長田神社下」です。

城ケ谷に通じる道の西隣りが長田神社に通じる道です。


長田神社は承久3年(1221年)の創建以来、福ケ迫諏訪神社と称されましたが、明治2年に長田神社と改称されました。坂をのぼると右手に階段が見えます。


階段をのぼった正面に社殿が現れます。福ケ迫諏訪神社(長田神社)は上山城の守護神として信仰厚く、藩費をもってすべての造営修繕が執り行われたということで、あちらこちらに島津家の家紋が入っています。



手の込んだ龍の手水鉢も古いもののようです。

長田神社は高台にあります。向こう側の興国寺跡に広大な墓地が見えます。

来た道を戻り、この墓地を目指します。冷水街道沿いにある興国保育園の少し先のY字路を山側へ入ります。

「長澤鼎の墓」と書かれた案内板をたどると興国寺墓地に着きます。興国寺は島津氏の菩提寺である福昌寺の末寺として栄えた寺でしたが、廃仏毀釈により廃寺となりました。



長澤鼎の墓です。13歳で薩摩藩英国留学生として渡英し、その後アメリカに渡ってカリフォルニアで82歳の生涯を閉じました。五代とともに留学生らを引率した寺島宗則(松木弘安)は、長澤鼎について「米国に在て日本を忘却し帰朝の意なしと云へる奇人なり」と書いていますが、幼くして一人外国に身を置き、当地の環境に順応するしかなかったが故、日本に戻る場所を見出せなかったのかもしれません。


長澤鼎は留学時の変名で、もとは磯長彦助という名でした。長澤鼎の墓の横には磯長家之墓がたっています。慶応元年当時、幕府により洋行は禁止されていましたので、薩摩藩英国留学生たちの渡航は密航で、渡航中は各々変名を使っていました。五代友厚の変名は関研蔵でした。

興国寺墓地は広大です。しかし、興国寺はすでになく、管理者不明の墓石が多数あって、荒れた状態のところも少なくありません。


墓地は山の斜面にあり、桜島が見渡せます。

墓地のある一画はカラスが占領中。

墓地のほぼ中央に新納家の墓があります。特に表示はありませんが、石囲いがあり大きく目立つ墓です。


墓石裏面、左下に見える新納中三というのは、五代らとともに渡英した新納久脩(刑部)のことです。留学生の中では最年長で、五代らの上司ともいえる立場の人です。帰国後家老となり、後に奄美の大島島司となって奄美の人々のために尽力しました。

薩摩藩英国留学生とは関係ありませんが、興国寺墓地には伊地知季安の墓もあります。伊地知季安は嘉永5年(1852年)に記録奉行となりました。嘉永7年に亡くなった五代友厚の父秀堯も記録奉行でしたから、短期間とはいえ同僚だったかもしれません。また、伊地知季安の父の実家は本田家といいます。友厚の母やすも本田家の出ですから、なんらかの繋がりがあるはずです。


これは高崎五郎右衛門の墓だそうです。高崎五郎右衛門は、いわゆるお由羅騒動で嘉永2年(1850年)に自刃しました。墓石にある巍山は高崎五郎右衛門の号です。高崎五郎右衛門の長男、高崎正風と五代友厚はかなり親しかったようで、多くの書簡が残っています。高崎正風の生家は興国寺から少し東の冷水街道沿いにあり、五代の生家と近く、年齢もほぼ同じなので幼なじみだったのかもしれません。

日当山侏儒どんの墓もありました。


<住所>
五代友厚誕生地:鹿児島市長田町31
横山安武・森有礼成育之地:鹿児島市長田町21
長田神社:鹿児島市長田町24
興国寺墓地:鹿児島市冷水町5