五代友厚 出仕(足跡篇)
Godai Tomoatsu, Duty (Footprints)

鹿児島の照国神社と鶴丸城跡付近を歩きました。五代友厚は長崎在勤が長く、明治政府になってからは大阪に移り住みましたので、藩に出仕してから鹿児島で過ごした期間は3年ほどでした。

I walked around Terukuni Shrine and the old site of Tsurumaru Castle in Kagoshima.

照国町交差点です。向こうに照国神社の大きな鳥居が見えます。右手に中央公園がありますが、ここにはかつて藩校造士館がありました。

照国町交差点
照国町交差点 Terukuni-cho Intersection

鳥居に向かう途中の緑地に古い石造りの建物があります。旧鹿児島県立博物館考古資料館です。

旧考古資料館
旧考古資料館 Former Kagoshima Prefecture Archaeological Museum

明治16年に県立興業館として建設されたそうです。建物前のソテツも立派です。中に入って見学することはできませんが、よく保存されていて見応えがあります。

旧考古資料館
旧考古資料館 Former Kagoshima Prefecture Archaeological Museum

旧考古資料館建物の由来

照国神社の鳥居をくぐります。照国神社は島津斉彬公を祀るために創建された神社です。

照国神社鳥居
照国神社鳥居 Terukuni Shrine
別格官幣社照国神社
照国神社 Terukuni Shrine
照国神社の御由緒
照国神社の御由緒 History of Terukuni Shrine

入ってすぐのところにガス燈が復元されていました。島津斉彬はガス燈を開発し、城下に普及させようとしていました。

照国神社のガス燈
照国神社のガス燈 Gaslight at Terukuni Shrine
照国神社のガス燈
照国神社のガス燈 Gaslight at Terukuni Shrine

照国神社の社殿ができたのは元治元年(1864年)です。五代友厚が、イギリスへ留学生を派遣するための上申書を書いていた頃でしょうか。

照国神社
照国神社 Terukuni Shrine

照国神社

照国神社と探勝園には、島津斉彬、島津久光、島津忠義の三公の像があります。

三公建像碑
三公建像碑 Monument for Three Loads of Satsuma Domain

照国神社の奥に建っているのが島津斉彬公像です。

島津斉彬公像
島津斉彬公像 Statue of Shimazu Nariakira

島津斉彬説明板

銅像横の石碑は、戊辰戦争戦士の顕彰碑です。

戊辰之役戦士顕彰碑
戊辰之役戦士顕彰碑 Monument of Boshin War

照国神社に隣接する探勝園に行きました。25代藩主重豪のときにつくられ、はじめ千秋園と呼ばれていましたが、27代藩主斉興のときに手を加え探勝園と名づけられました。

探勝園入口
探勝園入口 Entrance of Tanshoen Garden

入口そばに「電信が駆けた庭園」という説明板がありました。斉彬は、日本で初めてモールス信号による交信に成功し、この探勝園と鶴丸城の間で実演してみせたということです。

電信が駆けた庭園

当時の鶴丸城配置図
鶴丸城配置図 Plan of Tsurumaru Castle in the 19th Century

庭園の中にも電信使用の地の碑があります。電信実験にあたっては、斉彬の指示で寺島宗則(松木弘安)がオランダ語の文献を翻訳したといいます。寺島宗則はその後も電信政策に力を注ぎ、「電気通信の父」と呼ばれました。

電信使用の地記念碑
電信使用の地記念碑 Monument of the First Telegraph in Japan

電信使用の地説明板

電信使用の地の碑のすぐ近くに苔むした石碑があります。一部欠けていますが、これは探勝園記で、五代友厚の父秀堯の撰によるものです。天保13年(1842年)に建てられました。友厚が数えで8歳のときです。

探勝園記
探勝園記 Monument of Tanshoen Garden
探勝園記
探勝園記 Monument of Tanshoen Garden

探勝園には島津久光公と忠義公親子の像があります。

島津久光公像
島津久光公像 Statue of Shimazu Hisamitsu

島津久光公像説明板

島津忠義公像
島津忠義公像 Statue of Shimazu Tadayoshi

島津忠義公像説明板

鶴丸城の二の丸庭園にあたる探勝園から、少し北の本丸跡にある黎明館に向かいます。「人をもって城となす」という方針から、鶴丸城は天守閣のない屋形づくりの建物であったといいます。堀もそれほど広くありません。城壁の上にぽつんと見えている石碑は行幸記念碑です。

鶴丸城の堀
鶴丸城の堀 Tsurumaru Castle Moat

明治5年(1872年)に明治天皇が鹿児島を行幸した際の記念碑です。明治天皇は鹿児島港の台場跡や鹿児島紡績所の旧技師館なども訪問されました。この行幸には西郷隆盛も同行しています。

行幸記念碑
行幸記念碑 Memorial of Imperial Visit

本丸に入るための大手橋が見えます。堀にはハスが群生していて、初夏には美しい花が咲くそうです。

鶴丸城大手橋
鶴丸城大手橋 Tsurumaru Castle Ote Bridge

鶴丸城跡掘のハスの群生

黎明館となる前、鶴丸城跡には第七高等学校造士館がおかれていました。

史跡鶴丸城跡
鶴丸城跡 Old Site of Tsurumaru Castle, Kagoshima
第七高等学校造士館跡
第七高等学校造士館跡 The Seventh Higher School ‘Zoshikan’ School

大手橋を渡ったところに御楼門を復元すべく、現在工事が進められています。鹿児島(鶴丸)城跡説明板

本丸入口付近の石垣には、明治10年の西南戦争のときに撃ち込まれた銃弾や砲弾の痕が残っています。

西南戦争弾痕
西南戦争弾痕 Bullet Holes of the Seinan War

石垣に残る西南戦争の弾痕

黎明館に入ります。鹿児島県歴史資料センターとして、鹿児島の歴史を幅広く展示しています。

黎明館
黎明館 Reimeikan Museum
黎明館案内板
黎明館案内板 Plan of Reimeikan

展示のほとんどは撮影禁止なので、あまり写真はありません。天文館通りの模型は遠近法で手前と奥の人形の大きさを変えるなどしてあり、大変よくできていました。五代友厚のコーナーには、愛用の金時計や五代家の印、水墨画などが展示してありました。

天文館通り
天文館通りの模型 Model of Tenmonkan Street
出水麓の模型
出水麓の模型 Model of Izumi-fumoto Town
鶴丸城の配置図
鶴丸城の配置図 Plan of Tsurumaru Castle

鶴丸城跡の敷地内には、たくさんの記念碑や銅像があります。

黎明館敷地内の記念碑等
黎明館敷地内の記念碑等 Plan of the Monuments at Reimeikan Site

天璋院篤姫の像。

天璋院篤姫像
天璋院篤姫像 Statue of Tenshoin Atsuhime

七高生久遠の像。

七高生久遠の像
七高生久遠の像 Statue of the Seventh Higher School Students

鶴丸城前の国道10号線沿いには、本物のガス燈が設置されています。夜になるとオレンジ色の暖かみのある炎で道を照らしてくれます。

ガス燈
ガス燈 Gaslights
ガス燈
ガス燈 Gaslight
ガス燈
ガス燈 Gaslight
ガス燈説明板
ガス燈説明板 Explanation Board of Gas Lighting

 

<住所>
旧鹿児島県立博物館考古資料館:鹿児島市城山町1-5
照国神社:鹿児島市照国町19-35
探勝園:鹿児島市照国町19-5
鹿児島県歴史資料センター黎明館(鶴丸城跡):鹿児島市城山町7-2

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五代友厚 出仕(2)
Godai Tomoatsu, Duty (2)

パリ万博薩摩パビリオン
1867年パリ万博 薩摩パビリオン Satsuma Pavillion at the Paris Expo 1867

長崎海軍伝習所に学んでいた五代友厚は、藩主島津斉彬の逝去により安政5年10月13日(1858年11月18日)、鹿児島への帰国を命ぜられた。薩摩藩は茂久(忠義)が封を継いだが、実権は祖父の斉興、その卒去後は実父久光が握っていた。五代は帰国中、一朝有事の際に外国と対抗するに足る蒸気船を購求すべきであると藩主に建言している。

翌年5月、藩命により再び長崎へ遊学。片岡春卿の『贈正五位勲四等五代友厚君伝』には「君再び長崎港に出で、益々技術を研修す」とある。このとき海軍伝習所はすでに閉鎖されていたから、五代がどこでどのように研修していたのか定かではないが、多数の人々と交遊し、特に通詞の堀孝之や岩瀬公圃、長崎の豪商永見伝三郎やその弟米吉郎とは密なる友情を結んだ。安政6年8月に来日した英商トーマス・グラバー(Thomas Glover)と知り合ったのもこの頃だろう。

文久2年(1862年)初めに五代は御船奉行副役となる。同年4月には千歳丸で上海に渡り、藩のために蒸気船を購入し船長を務めるようになる。翌年、薩英戦争の捕虜となった後しばらく亡命生活を送るが、上申書が認められて慶応元年(1865年)に渡欧した。紡績機械や銃などを購入して帰国後、御納戸奉行格御用人席外国掛として蒸気船の購入や斡旋、商社設立計画、パリ万博の準備などに携わる一方、維新に向けて長州や土佐の藩士とも頻繁に接触している。

新政府となり、徴士参与として外国事務局判事や大阪府判事に粉骨砕身するも、明治2年7月(1869年8月)に官を辞す。在官中、伊地知壮之丞(貞馨)の代理として軍艦御買上御用掛を兼務していたこともある。退官後は在阪のまま藩の堺紡績方掛を任ぜられた。廃藩置県後も短期間ではあるが、鹿児島の国産会社大阪出張所掛で砂糖取引きに関わっている。

<参考文献>
日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料 第一巻』1971年
宮本又次『五代友厚伝』1980年

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五代友厚 出仕(1)
Godai Tomoatsu, Duty (1)

黒船来航
ペリー提督黒船陸戦隊訓練の図 Perry’s Expedition to Japan, 1853

五代友厚は、嘉永6年(1853年)、父秀堯の死にあい、その翌年の安政元年から藩に出仕し郡方書役となった。数えで二十歳であった。父が没して約1ヶ月後にマシュー・ペリー(Matthew Perry)率いる黒船が浦賀に来航しており、開国鎖国の議論で国中騒然としていた時のことである。黒船来航は、五代にとって「志を立つるは、将に此時にあり」と言わしめるほどの出来事であった。兄徳夫はかつて藩の御蔵係で、五代の出仕に際しその職を譲ろうとしたが、五代は趨勢に見るところありこれを断る。五代は熱心な開国論者、兄徳夫は鎖国的で、始終意見は相容れなかったという。

五代が任ぜられた郡方書役の郡方とは、年貢、夫役、検断、訴訟、道橋の補修など農村諸政を担当する部署で、書役は文書管理の実務を担当する役割である。当時の藩主島津斉彬は反射炉の建設や造船、鋳砲、砲台の建設などを推し進めたことが広く知られているが、農業改革も積極的に行っていて、稲・蕎麦・粟・芋の新品種導入や、灌漑施設の整備、農機具の改良、また外国産の薬用植物や香料の栽培も試みている。郡方の仕事もこうした改革と無関係ではなかっただろう。

五代が出仕しておおよそ2年が経った頃、安政2年(1855年)末に幕府は長崎に海軍伝習所を設立する。薩摩藩はまず沖直次郎と木脇賀左衛門を砲術調練のため派遣したが、両人のみで多端の科目を修得するのは困難であるとして、さらに数人を長崎に遊学させることとなった。五代は選ばれて航海・測量を専攻するため伝習所に入る。長崎海軍伝習所では、薩摩藩から川村純義や本田彦次郎、川南清兵衛、幕府から勝海舟、榎本武揚、佐賀藩から中牟田倉之助、また医学生として松本良順らが学んでおり、五代はここで知己となった人々とその後幕末明治のさまざまな場面で再び交わることになる。

In 1853, Commodore Matthew Perry’s black-hulled paddle-wheeled ship which was sent by the United States, arrived off the shore of Uraga, Japan. A year later, Godai Tomoatsu started serving the Satsuma Domain at the age of eighteen.

<参考文献>
尚古集成館『ー図録 薩摩モノづくりー 島津斉彬の集成館事業』2003年
日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料 第一巻』1971年

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