五代友厚 造士館(足跡篇)
Godai Tomoatsu, Zoshikan School (Footprints)

鹿児島の中央公園周辺を歩きました。五代友厚も通った藩校造士館があった場所です。

I walked around Central Park of Kagoshima City.  There used to be Zoshikan School which Godai Tomoatsu attended in his childhood.

中央公園に向かう前に、天文館アーケード内に建つ天文館跡の碑に立ち寄りました。造士館をつくった島津重豪が安永8年(1779年)に建てた明時館のあった場所です。暦や天文学を研究する施設で、天文館とも呼ばれました。

天文館跡の碑
天文館跡の碑 Monument of the Tenmonkan

天文館跡の碑説明文

アーケードを抜けると中央公園です。公園の中央は広い芝生になっていて、本を読む若者、ボール遊びをする子ども、散歩をする親子連れなどたくさんの人で賑わっています。

中央公園
中央公園 Central Park, Kagoshima
中央公園
中央公園 Central Park, Kagoshima

ここにはかつて、薩摩藩の藩校である造士館と演武館がありました。照国通り側が造士館、宝山ホールのある側が演武館でした。公園の南にある入口のすぐ右手に造士館・演武館跡と中学造士館の記念碑が建っています。

造士館・演武館跡
造士館・演武館跡 Old Site of Zoshikan and Enbukan Schools
造士館の絵図
造士館の絵図 Zoshikan School
造士館・演武館の絵図
造士館・演武館の絵図 Zoshikan and Enbukan Schools

藩校であった造士館の名は、明治4年(1871年)の廃藩置県でいったん消えましたが、明治17年に鹿児島県立中学造士館として復活しました。

中学造士館の記念碑
中学造士館の記念碑 Monument of Zoshikan High School

これら記念碑のちょうど裏手、道路に面したところにも造士館と演武館の古い石碑が建っています。造士館は安永2年(1773年)、演武館は安永3年、藩主島津重豪建設と刻まれています。

造士館・演武館の石碑
造士館・演武館の石碑 Stone Monument of Zoshikan and Enbukan Schools
造士館跡石碑
造士館跡石碑 Stone Monument of Zoshikan School
演武館跡石碑
演武館跡石碑 Stone Monument of Enbukan School

造士館・演武館の石碑と並んで出水筋の説明板がありました。出水筋は、ここから千石馬場通を通って西田橋を渡り、熊本との県境である野間関へ至る、現在の国道3号線に近いルートでした。参勤交代でもよく使われ、薩摩街道の中で最も重要な道筋のひとつでした。

出水筋説明板
薩摩街道(出水筋)説明板 Explanation Board of Satsuma Road (Izumi-suji)

公園の南の入口から入ってすぐ左手には、医学院跡の碑があります。医学院は、同じく島津重豪が安永3年(1774年)に創設したもので、医師を養成し薬草の研究を行いました。

医学院跡
医学院跡 Monument of Old Medical Institute, Kagoshima
医学院跡
医学院跡 Old Site of the Medical Institute
医学院の絵図
医学院の絵図 Illustration of Medical Institute, Kagoshima

公園内を照国通り沿いに進むと、三角錐型のモニュメントがあります。ここは、国道3号線、国道10号線、国道225号線の交わる場所で、3つの道路の起終点となっています。10号線は磯浜から錦江湾沿いに宮崎へ通じる道、225号線は枕崎の方へ向かう道です。

道路起終点標
道路起終点標 Kilometre zero
道路地図
道路地図 Road Map

国道10号線を鶴丸城の方角へ歩きます。

国道10号線
国道10号線終点 Route 10 ends here

城山を背に西郷隆盛の巨大な銅像が見えてきました。

西郷隆盛銅像
西郷隆盛銅像 Statu of Saigo Takamori

銅像がうまく写真に収まるスポットもあって、周辺はいつも人でいっぱいです。

西郷隆盛銅像
西郷隆盛銅像 Statu of Saigo Takamori
西郷隆盛略年譜
西郷隆盛略年譜 Saigo Takamori Chronological Record
西郷南洲翁終焉百年之碑
西郷南洲翁終焉百年之碑 Monument of Saigo Takamori

西郷南洲翁終焉百年之碑の向こう側に茶色いどっしりした建物があります。中央公民館です。片岡安の建築で、昭和2年(1927年)に竣工しました。片岡安は辰野金吾とともに大阪中央公会堂の建築にも携わり、大阪商工会議所会頭をつとめたこともあります。

中央公民館
中央公民館

中央公民館の少し先、鶴丸城の二の丸跡に鹿児島県立図書館があります。図書館入口奥にある黒っぽい石碑は、薩摩辞書之碑です。

鹿児島県立図書館入口
鹿児島県立図書館入口 Entrance of Kagoshima Prefectural Library

薩摩辞書は、前田献吉・正名兄弟と高橋新吉が編纂した英和辞書で、上海で印刷されました。外国との交渉が増える中、辞書の需要は大きく、前田らはこの売り上げで念願の海外留学を果たします。五代友厚も薩摩辞書の売りさばきに尽力したといいます。

薩摩辞書之碑
薩摩辞書之碑 Monument of Satsuma Dictionary
和訳英辞書
和訳英辞書 Japanese-English Dictionary
薩摩辞書之碑背面
薩摩辞書之碑背面 Monument of Satsuma Dictionary, Back Side

鹿児島県立図書館の向かいは名山小学校です。小学校の南側には、五代友厚の父秀堯が奉行をつとめた御記録所がありました。

名山小学校
名山小学校 Meizan Primary School

小学校沿いをぐるっとまわって一本東の道に出ると、小松帯刀の屋敷跡があります。五代友厚と小松帯刀は同じ天保6年生まれですから、造士館でも一緒に勉強したのではないでしょうか。小松帯刀は原良というところにも別荘を持っていて、ここに同じく天保6年生まれの坂本龍馬が滞在したことがあるそうです。

小松帯刀屋敷址
小松帯刀屋敷址 Old Site of Komatsu Tatewaki Rresidence
小松帯刀屋敷址
小松帯刀屋敷址 Old Site of Komatsu Tatewaki Rresidence

中央公園北側の宝山ホールに戻ってきました。

宝山ホール
宝山ホール Houzan Hall

宝山ホールの前に小松帯刀像がたっています。大政奉還における小松帯刀をイメージした銅像だそうです。若くして亡くなったことが惜しまれます。小松帯刀が亡くなったのは大阪で、五代友厚も大阪にいましたので、よく見舞いなどに訪れていたようです。

小松帯刀像
小松帯刀像 Statue of Komatsu Tatewaki
小松帯刀像
小松帯刀像 Statue of Komatsu Tatewaki

小松帯刀像説明板

<住所>
天文館跡の碑:鹿児島市東千石町15-4
造士館・演武館跡、中学造士館の碑(中央公園):鹿児島市山下町4
医学院跡(中央公園):鹿児島市山下町4
道路起終点標(中央公園):鹿児島市山下町4
西郷隆盛像:鹿児島市城山4
中央公民館:鹿児島市山下町5-9
薩摩辞書之碑(鹿児島県立図書館):鹿児島市城山町7-1
名山小学校:鹿児島市山下町6-43
小松帯刀屋敷址(井後眼科):鹿児島市山下町7-10
小松帯刀像(宝山ホール):鹿児島市山下町5-3

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五代友厚 造士館(2)
Godai Tomoatsu, Zoshikan School (2)

造士館・演武館の絵図
造士館・演武館の絵図 Plan of Zoshikan and Enbukan Schools

五代友厚は、幼き頃より鋭敏で果断に富み、儕輩を抜いていたという。児童院の学塾から帰ったあとは外出せず、自宅で軍談の稗史を読むことを好んだ。五代の語りがよほどうまかったのだろう。同輩数人が毎日やって来ては五代の軍談を聴きたがったという。五代は才気あふれる弁舌家として知られるが、このときすでにその片鱗がうかがえる。

造士館では、剣術の練習に使う竹刀を、生徒が毎年春先に竹を刈り砂で磨いて準備した。皆磨き易いものを取ろうと日々争論紛雑止む時がなく、五代はこれを見て、竹の長短細太を選別し、年齢に応じて数を配分して、自らは扱いにくいものを率先して磨いた。五代の統率力を見て取った教師は、生徒間で争論がある度、五代を呼び出し仲裁を任せる。五代は正論雄弁をもって調停したというが、そのやり方は薩人の士風とは少々異なるものであったかもしれない。

また、このような話もある。ある日、御目付島津某の家士が、下校途中に五代を嘲罵したため、五代は憤然としてこの某の襟を掴み、これを投げ飛ばす。結果、一時出校差し控えを命じられることとなったらしい。常は温厚で忍耐強い性格であったが、時に臨んでは勇ましく毅然たる態度もとった。

五代が嘉永7年(1854年)ごろまで通った造士館は、明治2年(1869年)に学館と改称され、明治4年の廃藩置県で事実上廃止となった。しかし、造士館の名は、明治17年に鹿児島県立中学造士館として復活し、最後は第七高等学校造士館へと引き継がれていく。校舎には、異人館と呼ばれた鹿児島紡績所技師館の建物が、中学造士館創設時に磯浜から移築され、長く使用されていた。

Some episodes tell that Godai Tomoatsu has been smart and sharp, and also a talented speaker and good moderator since he was a child.

<参考文献>
石川松太郎他編纂『人づくり風土記 江戸時代 46 鹿児島』1999年
奈良本辰也編『日本の藩校』1970年
日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料 第一巻』1971年

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五代友厚 造士館(1)
Godai Tomoatsu, Zoshikan School (1)

造士館
造士館(三国名勝図会) Zoshikan School (Sangoku Meishozue)

五代友厚は、8歳から児童院に、12歳から聖堂、つまり造士館に通ったという。造士館は八代藩主島津重豪(しげひで)の代、安永2年(1773年)につくられた薩摩の藩校で、演武館を併設して文武両道の教育を目指した。生徒は城下士の子弟が中心だったが、地方士族や商人の子弟にも聴講を許し、運営資金は藩費でまかない学費は徴収しなかった。重豪は同じ頃、医学生の養成や薬草の研究を行う医学院、天文学や暦学を研究する明時館も創設している。

造士館は鶴丸城の二の丸御門の前の広い敷地につくられた。現在中央公園となっている場所で、照国通りに面した南側に聖堂、講堂、文庫、学寮などからなる造士館、北側に剣術稽古所、槍術稽古所、射手屋、馬乗場、犬追物稽古場などを備えた演武館があった。造士館では朱子学を教え、講読に四書・五経などを用いた。演武館には各武道流派の師範がやってきて厳しく指導にあたったという。五代友厚の銅像に示現流の構えをしたものがあるが、示現流は東郷家が継承する薩摩藩独自の剣術で、立木打という激しい稽古を特徴とする。

造士館は、近思録崩れや緊縮財政の影響で一時停滞するも、十一代藩主斉彬(なりあきら)が行った学風改革により再び隆盛をみる。五代は父秀堯の死後、安政元年(1854年)から藩に出仕するようになったから、斉彬が改革に乗り出したときにはすでに造士館を出ていた。斉彬は、国学館と洋学館の創設も計画していたようだ。ともに実現しなかったが、洋学館のことは石河確太郎(正龍)に内命し調査などさせていた。石河は蘭学に通じ、五代らの英国留学に備え、紡績機械の購入指示や派遣留学生の選抜に協力した人物で、明治に入ると五代とともに堺紡績所の建設にもたずさわった。

Godai Tomoatsu entered Zoshikan School of Satsuma Domain when he was 8 years old.   Satsuma Domain encouraged its Samurais to cultivate both the literary and military arts.

<参考文献>
石川松太郎他編纂『人づくり風土記 江戸時代 46 鹿児島』1999年
鹿児島県『鹿児島県史 第三巻』1941年
宮本又次『五代友厚伝』1980年

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