五代友厚 上海南市(2)
Godai Tomoatsu, Shanghai Nanshi (2)

上海県城図
上海県城図 19世紀初 Map of Shanghai Walled City, Early 19th Century (Virtual Shanghai)

太平天国軍の乱による影響もさることながら、上海滞在中の千歳丸一行を最も苦しめたのは濁水問題だったようだ。到着後まもなく2名がコレラにより死没し、半数以上が下痢や嘔吐など体調不良に悩まされた。上海には城中に3つか4つの井戸があるのみで、常は黄浦江の水を明礬や石灰で汚れを沈殿させて漉して飲むという具合であった。黄浦江には糞尿が流され人や動物の死体が浮いていたというから、この程度の処理で飲み水とするには抵抗があったろう。さらに1ヶ月ほどして岩瀬公圃の従者、碩太郎も病没した。上海は、収容能力をこえる難民の流入で衛生状況が極限まで悪化していた。

日本人の遺体は浦東の爛泥渡に埋葬されたという。ようやくたどり着いた外国の地で命を落とすのは無念であったに違いない。文久2年(1862年)のこの年は、上海のみならず日本でも麻疹とコレラが大流行していた。上海渡航前から体調が万全でない者がいたし、高杉晋作も出発前に麻疹にかかっていたという。

到着して1ヶ月が経った頃、高杉晋作は千歳丸に五代友厚を訪ねた。五代は水夫の身であったから千歳丸に起居していた。五代曰く、郷里から届いた手紙によれば、京摂のあいだで事変があり、我が藩も関係しているらしいとのこと。文久2年4月23日(1862年5月21日)に起こった寺田屋事件のことだろう。高杉は慨然とし、直後に蘭館で地図と短銃を求めたという。

この頃、浜松藩の名倉予何人は、上海県城内の文廟に駐留するイギリス軍を目撃する。兵学に関心のある名倉はその後も城内外を積極的に歩きまわり、ある日小南門近くで王亘甫(Wang Xuanfu)と知り合った。王家は富裕な商人の一族で、王亘甫のおじは地方行政にも関与する上海の有力者だったという。名倉は小南門外にあった王家の邸宅を訪ねるようになり、王亘甫の世話で李鴻章の淮軍の軍事調練を見学する機会も得た。

For the Senzai-maru party who arrived in Shanghai in 1862, the chief problem was water pollution.  Three Japanese died of Cholera and a half of the members were in sick due to  polluted water.

<参考文献>
小島晋治監修『中国見聞録集成 第一巻』1997年
小島晋治監修『中国見聞録集成 第十一巻』1997年
宮田道昭『上海歴史探訪』2012年

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