
五代友厚は、4度ほど上海へ渡航した経験があるようだ。最初の上海行きは薩摩藩の御船奉行副役となった文久2年1月(1862年2月)で、英商トーマス・グラバー(Thomas Glover)とともに上海に渡り蒸汽船を購入したとされる。その帰国から間もない文久2年4月にも幕船千歳丸(せんざいまる)に乗船し、上海に2ヶ月以上滞在している。その後、五代はヨーローッパへ渡るが、復路帰国途中の慶応2年1月(1866年3月)にも、乗り換えの船を待つあいだ上海に逗留した。4度目は慶応3年8月で、このときはパリ万国博覧会のため渡仏していた薩摩藩士一行とシャルル・ド・モンブランを船で上海まで迎えに行っている。
清代の中国は、1840年に始まったイギリスとの阿片戦争に敗れ、1842年に南京条約を批准して、香港島割譲や莫大な賠償金の支払いに応じることになった。この条約には五港開港や公行廃止などが含まれ、上海は1843年11月に正式に開港する。さらに1845年に上海道台と英国領事のあいだで「上海土地章程(Shanghai Land Regulations)」が結ばれると、上海県城の北側、黄浦江沿いに租界が誕生し、上海が半植民地的支配を受ける端緒となった。
一方、日本では嘉永6年(1853年)にマシュー・ペリー(Matthew Perry)率いる米艦、いわゆる黒船が来航し、安政5年(1858年)に米英仏露蘭五カ国と条約を結ぶに至る。下田、函館、神奈川をすでに開港し、兵庫、新潟の開港も迫られていた日本にとって、中国の状況は他人事ではなくなっていた。幕府による千歳丸の派遣は、貿易拡大を期するのみならず、ヨーロッパ列強に対処する中国の状況を視察する目的があったのだろう。
Godai Tomoatsu sailed to Shanghai four times in the 1860s. One is the voyage by the Senzai-maru, which was the first official trade ship by Tokugawa shogunate.
<参考文献>
上海市政協文史資料委員会編『開放中前行ー上海開埠170周年歴史程』2013年
日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料 第四巻』 1974年
宮本又次『五代友厚伝』1980年