五代友厚 伏見と水運(2)
Godai Tomoatsu, Fushimi as a Riverport (2)

伏見船場
伏見船場(都名所図会) Fushimi Riverport

慶応4年2月(1868年3月)、英仏蘭公使は初めての天皇謁見を前に、京都へ赴く。五代友厚は、レオン・ロッシュ(Léon Roches)らフランス公使一行の上京を手配し、警護や接待を受け持った。

五代が書いた「仏公使上京の次第」という草稿がある。

一 廿六日騎兵八疋大坂表着。翌廿七日伏見迄差越、公使着迄伏見ニ相待ツ事。
一 廿七日十二時迄、公使其外廻船、寺町公使館所へ一泊。廿八日伏見迄差越一泊にて、廿九日入京の筈。
右手当左の通
一 廿八日未明より、川登船弐拾隻八軒屋へ手当、士官船四艘位。
公使は時宜次第、陸行可相成事。
一 公使・士官 八人
一 一等士官 三人
一 下等士官 六人
一 兵士 五十人
    小仕 四、五人
   〆人数七十位
一 伏見より乗馬拾疋借用ル。五疋ハ洋鞍(此ケ条小松聞入候)。
一 同所より駕籠五ツ。
一 京旅館へ夜具手当
一 馬飼麦等手当。
一 食物類入付。
一 食事道具手当不及事。

大阪は八軒屋の船着場から出発し、淀川を船で上って伏見に一泊、伏見から馬もしくは駕籠で京都に移動したことがわかる。一度に70人もの外国人を不手際なく先導するのはさぞかし骨が折れただろう。

同行した士官パリ(Pâris)の報告書によれば、「士官の乗る舟は赤と青の幕が張ってあり、水兵たちの乗る舟は単にムシロで覆われていた」という。川を遡るため「船頭たちは、ある時は懸命に押したり、ある時は曳き綱で引いたりして」舟を操った。「申し分ない天気だったので、われわれは行程の多くの部分を徒歩で進んだ」ともあるから、ずっと舟に乗っていたわけではないようだ。13時間の航行の後、ようやく伏見に到着し「薩摩藩の殿様の所有する大邸宅」に宿泊した。夜半から翌日にかけては土砂降りの雨で、京都までの道のりは難儀したようだ。

In 1868, French diplomat Léon Roches was granted an audience with the the Emperor Meiji in Kyoto. Godai Tomoatsu who attended the French diplomat and his suite from Osaka to Kyoto and they traveled by boats on the Yodo-gawa River.

<参考文献>
アベル・デュプティ=トゥアール著 森本英夫訳『フランス艦長の見た堺事件』1993年
日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料 第四巻』1974年

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