五代友厚が木戸孝允や広沢真臣らと会談し、薩長国産貿易商社計画について話し合った下関を訪ねました。
I visited Shimonoseki where Godai Tomoatsu met Kido Takayoshi and Hirosawa Saneomi in 1866 to discuss the establishment of Satsuma-Choshu Trading Company.
前田砲台跡から下関駅に向かって歩くことにします。
下関駅から長府へ行くバスに乗り、途中の前田というバス停で降りると、国道9号線沿いに前田砲台跡の看板が見えます。ちなみに、前田から城下町長府の功山寺までは、野久留米街道と呼ばれる旧山陽道でつながっています。

長府藩下関前田台場跡碑です。長州藩は幕末の攘夷戦争に備え、下関海峡沿いに多数の砲台を築造しました。前田砲台もそのひとつです。大砲20門を備えていたといいます。


前田台場は、文久3年(1863年)に築造された「低台場」と、元治元年(1864年)に増築された「高台場」の二つから成ります。 長州藩が米仏蘭艦に対し突然砲撃を加えた下関事件が文久3年5月、その報復として英米仏蘭の四国連合艦隊が下関を砲撃した下関戦争が元治元年8月にありました。


半円形に並んでいるのは砲台を設置するために使われた石でしょうか。すぐそばに関門海峡が見えます。台場は10〜16メートルの高台に造られているので、周囲の海を一望できます。

下関戦争で占領された前田台場を、イタリア生まれのイギリスの写真家フェリーチェ・ベアト(Felice Beato)が撮影しています。ベアトは1863年ごろから10年ほど日本に滞在し、幕末から明治初期にかけて多くの写真を残しています。下関戦争には従軍写真家として帯同していました。

台場跡には、行啓記念碑と皇太子殿下駐駕之處もあります。台場が取り払われた後、貝島太市の別邸が建てられ、そこに皇太子、つまり後の昭和天皇が大正15年(1926年)に立ち寄られたことを記念したものです。貝島太市の邸宅は城下町長府にあり、経営していた貝島炭礦の本社はジャーディン・マセソン商会下関支店の建物を買い取ったものだそうです。
隣りの石碑に前田御茶屋台場跡とあるのは、長門府中藩の第3代藩主毛利綱元が造った茶屋がここにあったことに由来します。


砲台前の海辺は砂浜でした。海の向こうに見える山の上には、かつて門司城がありました。

下関駅方面に進むと関門橋が見えてきます。関門海峡の下はトンネルで門司とつながっていて、歩いて渡ることもできます。

関門トンネルの入口付近にみもすそ川公園があります。御裳川とは、伊勢神宮そばの五十鈴川の別名で、壇ノ浦の戦いで安徳天皇と一緒に海に身を投げた二位ノ尼の辞世の句にこの川の名があったことに由来します。

この公園にはいろいろなモニュメントあるので、時代順に並べてみます。
寿永4年(1185年)、この付近で壇ノ浦の戦いがありました。壇の浦古戦場址碑の横に源義経像と平知盛像の銅像があります。ちなみにバス停は、前田の次が御裳川、次が壇ノ浦です。バス停の名前が壇ノ浦ですよ、歴史を感じます。


次に壇ノ浦砲台跡です。前田砲台同様、長州藩が幕末の攘夷戦争に備え築造したものです。当時を模して海に向かって大砲が並んでいます。ちなみに、この大砲のうち一門は100円を入れると砲撃音が鳴り響き、かすかに白煙があがります。子どもだましのようでいて、意外にリアルな気分に浸れます。


長州砲のレプリカです。長州藩の青銅砲はすべて四国連合艦隊の戦利品として国外に運び去られましたが、そのうちのひとつがフランスから貸与のかたちで里帰りし、下関市立歴史博物館で展示されているそうです。これはそのレプリカです。


砲身に「天保十五年申辰 郡司喜平治信安作」とあります。郡司家は萩藩の鋳物師で、喜平治は長州藩の大砲鋳造用掛に命ぜられてこの大砲をつくりました。天保15年は1844年ですから、下関戦争より20年も前のことです。「壹貫目玉」とあるのは使用される砲弾の大きさを表しています。

砲身にも凝った文様が刻まれています。

馬関開港百年紀念の碑です。元治元年(1864年)の下関戦争後、 下関港は事実上出入り自由となり、100年後の昭和39年(1964年)にこの碑の建立が決まったということです。


みもすそ川公園の対岸には、門司の和布刈神社が見えます。明治時代になると、和布刈神社付近にも砲台が造られました。海の下を通る関門トンネル人道は距離にしてたったの780メートルですから、対岸は本当に目と鼻の先です。

みもすそ川公園から関門橋の真下を通り、海岸沿いの国道9号をさらに西へ歩きます。江戸時代の人は、ここに橋がかかることを想像していたでしょうか。

旧山陽道の道標がありました。「右 上方道」「左 すみよし道」となっています。天保八年とありますから、幕末の志士たちがここを通ったときもすでにこの道標は立っていたでしょう。



赤間神宮に立ち寄りました。
薩長国産貿易商社計画に関わり、薩摩藩の御用商人でもあった下関の豪商白石正一郎は、後に赤間神宮の宮司となりました。尊王攘夷思想のもと高杉晋作や坂本龍馬など多くの志士たちを支援した白石でしたが、私財を投げうったため家は傾き、晩年は宮司としてひっそり暮らしたということです。

赤間神宮は、9世紀に阿弥陀寺として創建され、建久2年(1191年)に壇ノ浦の合戦で海に身を投じた安徳天皇の御影堂が建立され、赤間神宮と宣下されたということです。明治初めの廃仏毀釈により阿弥陀寺は廃されました。


赤間神宮の水天門です。竜宮城を想起させます。昭和32年(1957年)に建てられた楼門で、竜宮造りというそうです。平家物語に出てくる安徳天皇と二位尼が住む竜宮城に基づいているということです。


境内に安徳天皇の御陵があります。


赤間神宮からさらに西へ向かいます。下関ですから、マンホールはふぐの模様です。

唐戸交差点付近には、古い洋館などが点在しています。港がある唐戸は古くから下関の中心地でした。
交差点の東側にあるのが、旧下関英国領事館です。明治34年(1901年)に開設され、明治39年に現在の場所に移されました。領事館の隣りにはジャーディン・マセソン商会の下関支店がありました。当時の写真を見ると、領事館よりずっと大きく立派な建物だったようです。



内部も見学できます。たいへんきれいに保存されています。

道をはさんで英国領事館の西隣りにあるユニークな外観の建物は旧秋田商会ビルです。大正4年(1915年)竣工の鉄筋鉄骨造で、屋上庭園もあったそうです。秋田商会は明治末頃から木材取引などの商社業と海運業を営んでいました。



意外にも内部は和風の造りです。秋田商会ビルには下関観光情報センターが入っていて、下関の観光情報を親切に教えてくれます。また、地図パンフレットも多数置いてあります。

秋田商会ビルの隣りは下関南部町郵便局です。レトロな建物のまま現役で郵便局を続けています。明治33年の建築で、現在使用されている郵便局舎の中で最古のものだそうです。カフェも併設されていました。


唐戸交差点のあたりから一本北側の山陽道に入り、さらに西に向かって歩きます。保険会社のビルが3つ並ぶ付近に、馬関越荷方役所跡の碑があります。越荷とは越後から北前船で運ばれてくる積荷のことで、萩本藩は天保11年(1840年)ここに役所を開設し、運搬された荷を担保に保管・金融業及び販売を営み莫大な利益をあげました。高杉晋作が馬関越荷方頭人をつとめていたこともあります。つまり、薩長貿易商社で計画されていたようなことは、すでに長州では何年にも渡って実際に行われていたことであり、薩摩側に伝えられた破談の理由はおそらく表向きのものであって、実際は別のところにあったのだろうと思います。


馬関越荷方役所跡碑の少し先に山口銀行の旧館があります。大正9年の竣工でもともとは三井銀行下関支店でした。


内部は史料館になっていて自由に見学できます。ずらっと並ぶ窓口はまさしく銀行そのものです。

下関駅を越えて、国道191号の坂道を少し上がったところに中国電力下関営業所があります。ここが白石正一郎の邸宅があった場所です。


白石正一郎は回船問屋小倉屋の当主でした。付近は当時海に面していて、このあたりに白石家の浜門があり、志士たちはここから出入りしたといいます。白石正一郎は文化9年(1812年)生まれなので、薩長貿易商社が計画された慶応2年(1866年)当時は54歳ということになります。五代友厚は30歳でした。


白石邸は奇兵隊結成の地でもあります。白石正一郎は、高杉晋作が文久3年(1863年)に奇兵隊を結成するにあたりその資金も場所も提供し、自らも隊士となりました。奇兵隊結成の前年、五代友厚と高杉晋作はともに千歳丸に乗って上海に行っています。

<住所>
長州藩下関前田台場跡:下関市前田1-7
みもすそ川公園:下関市みもすそ川町1番
山陽道道標:下関市阿弥陀寺町11-10
赤間神宮:下関市阿弥陀寺町4-1
旧下関英国領事館:下関市唐戸町4-11
旧秋田商会ビル、下関観光情報センター:下関市南部町23-11
下関南部町郵便局:下関市南部町22-8
山口銀行やまぎん史料館:下関市観音崎町10-6
馬関越荷方役所跡碑: 山口県下関市南部町17-9
白石正一郎旧邸跡、高杉晋作 奇兵隊結成の地:下関市竹崎町3-8-13(中国電力下関営業所内)