五代友厚 薩長国産貿易商社(2)
Godai Tomoatsu, Satsuma-Choshu Trading Company (2)

木戸孝允
木戸孝允 Kido Takayoshi

慶応2年10月(1866年11月)、五代友厚は長州の木戸孝允、広沢真臣、久保松太郎と馬関(下関)で会談し、薩長国産貿易商社について次の提案をなした。

・商社は、互いの国名を出さず商家の名を唱えること
・印鑑は、互いに取り替え置くこと
・出入帳を公明に記し、損益は折半すること
・荷方船三、四艘を備え、藩の名号にし国旗を立てること
・馬関を通る船は、何品であれできるだけ差し止めること
・馬関通船を相開く際は、25日前に商社へ知らせること

箇条書5つ目が「この商社の最緊要たる眼目」であり、金策の要であった。つまり、北国や九州の廻船を馬関に留め置き、物価上昇を見極めた上で、諸国産物を大阪に運びこんで利益を上げようというものである。

10月下旬の三田尻での再開を約束し、五代は大阪へ向かった。滞阪が長引き、木戸・広沢に11月中旬に談判を延期したいと手紙を出すも、その時期になっても現れない。このとき鹿児島から修好の使者として山口に派遣されていた黒田清綱嘉右衛門らは、本来五代の船で薩長間を往復する予定であったのに、行きも帰りも当てが外れてしまった。

黒田らの帰鹿にあわせ、長州藩は木戸を返礼の使者として鹿児島へ派遣することを決め、修理が終ったばかりの丙寅丸を用意する。船は11月25日に出帆し、木戸は29日に島津久光・忠義父子と面会を果たした。出発前、藩主毛利敬親から「正道を践みて誠意を天下に通徹せん」として馬関の話が出た場合は断るよう命じられていたという木戸は、鹿児島にて計画の破談を告げた。背景には資金の調達や人選、これまでの薩長の確執などもあったとみられる。

年が明けて慶応3年1月23日(1867年2月27日)、五代は桂久武へ宛てた手紙に「私儀も城戸(ママ)へ対し少々不快の訳にて、はじめ馬関に於いて面会したときは、至極同意していたのに、此節は異論を散々申し立て候儀、困り入り申し候」と書いている。

While Godai Tomoatsu was staying in Osaka, Kido Takayoshi of Choshu  visited Kagoshima and refused Satsuma’s proposal for founding a trading company between Satsuma and Choshu in Shimonoseki.

<参考文献>
公爵島津家編輯所編『薩藩海軍史 中巻』1928-1929年
日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料 第四巻』1974年
松下祐三『薩長商社計画と坂本龍馬 ー坂崎紫瀾の叙述をめぐってー』「駒沢史学 第59号」2002年
宮本又次『五代友厚伝』1980年

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