鹿児島の大乗院橋からスタートし、大乗院跡周辺を歩きました。大乗院跡は、かつての清水城跡でもあります。
Starting from the Daijoin Bridge, I walked around the old site of Daijoin Temple. Before the Daijoin Temple was built, there was the Shimizu Castle which had been the home of the Shimazu clan for 15o years. Godai Tomoatu’s residence in Kagoshima was near there.
大乗院橋です。大乗院橋から南に仁王堂水まで続く道を坊中馬場といいました。五代友厚が慶応3年(1867年)に拝領した屋敷はこの坊中馬場にあったといいます。



大乗院橋を北へ渡ると稲荷川沿いに清水中学校があります。この中学校の敷地には、かつて大乗院という島津氏ゆかりの真言宗寺院がありました。また、大乗院が建立される前は清水城でした。150年ものあいだ島津氏が本拠地としていた城です。

清水中学校校内に五輪塔の一部が残っています。

大乗院は、明治初めの廃仏毀釈で最初に破壊された寺となってしまいました。


大乗院から稲荷神社に続く道を稲荷馬場と呼びます。城下町なので、このあたりは馬場と名のつく通りが多いです。

川沿いを東に進みます。
「清水城 山城跡 登り口」という案内板がありました。脇の細道から山に入っていくと山城跡へ行けるようです。清水城は、居城とその背後の山に築かれた山城の二つからなっていました。鶴丸城も同じつくりです。

さらに川沿いを上流に向かって歩いていくと赤い鳥居が見えます。

島津氏が勧請した鹿児島五社のひとつ、稲荷神社です。


稲荷神社では毎年秋に流鏑馬が行われ、多くの見物人で賑わったということです。今はもう行われていませんが、三国名勝図会にも稲荷神社の流鏑馬の様子が描かれています。

大乗院跡(清水中学校)の西にある福昌寺跡とキリシタン墓地に向かいます。福昌寺跡には歴代島津氏の墓が残されています。
島津家墓地の入口です。玉龍中学・高等学校と山のあいだのひっそりとした場所にあります。入口の扉は閉まっていますが、自由に開けて参拝・見学することができます。


福昌寺は、応永元年(1394年)に開山し、明治2年(1869年)に廃仏毀釈のため廃寺になりました。常に千五百余人もの修行僧がいる巨大寺院であったといいます。


玉龍中学・高等学校のある場所も、もとは福昌寺の境内でした。寺の正式名称が玉龍山福昌寺であったので、校名に玉龍の名が残されたのでしょう。

墓地は広大なので案内図が役に立ちます。福昌寺墓地には、島津氏6代〜28代目当主の墓があります。28代目は島津斉彬です。

入口を入って正面、大きな鳥居の向こうにある墓は、島津久光のものです。久光は明治20年に71歳で亡くなりました。五代友厚はそれより先の明治18年、49歳で亡くなっています。

島津斉興の墓です。近くにお由羅の墓もあります。斉興が死去したのは安政6年9月12日(1859年10月7日)で、五代友厚はこの頃長崎に遊学していました。

島津斉彬の墓です。正室英姫の墓と隣り合っています。斉彬は安政5年7月16日(1858年8月24日)に急死しました。五代友厚は長崎海軍伝習所で学んでいる最中でしたが、藩主の死を受けて一時鹿児島に帰国を命じられています。

島津墓地にある墓石の多くに黄色い石が使われています。ほかは黒っぽい石ばかりですから、淡い黄色の墓石はたいへん目立ちます。この石は山川石といい、鹿児島の南、山川の福元周辺でしか採れない溶結凝灰岩だそうです。鹿児島の石垣などによく使われているたんたど石も溶結凝灰岩ですが、山川石の見た目の美しさは特別です。のこぎりで切れるほどやわらかいのに風化に強く、墓石に向いているということです。

いったん門の外に出ます。墓地の西寄りに、島津家以外の人々の墓が並ぶ場所があります。


調所広郷(笑左衛門)の墓です。島津斉興に仕え、破綻寸前であった薩摩藩の財政を立て直しました。これは平成13年に新しく建てられた墓です。


横山安武の顕彰碑です。横山安武は森有礼の実兄で、二人は五代友厚と同じ城ケ谷で育ちました。家もごく近く、郷中方限も同じだった五代徳夫・友厚兄弟は、横山安武・森有礼兄弟に大きな影響を与えたと言われています。

横山安武は、明治新政府の腐敗・悪政ならびに征韓の非を糾弾し、東京で割腹自殺しました。明治3年7月27日(1870年8月23日)のことでした。西郷隆盛はその死を惜しんで自ら碑文を書いたといいます。

横山安武の顕彰碑には、弟の森有礼の名前も見えます。

島津家墓地の西端にある山道を登っていきます。かなりの急坂です。

この道の先には玉龍高校のグラウンドがあるそうですが、途中のキリシタン墓地が今回の目的地です。浦上四番崩れの後、長崎ではキリスト教信徒に改宗を促すもうまくいかず、慶応4年から明治3年にかけて、信徒を日本各地に流罪としました。鹿児島では375人が廃寺となっていた福昌寺に収容されました。鹿児島に連れてこられた信徒たちはかなり丁重に扱われていたようです。この墓地には、明治5年(1872年)の帰崎までに客死した58人が葬られています。亡くなった信徒もいた一方、13人の子どもが生まれ、330人が長崎に戻ったということです。


今も墓をきれいにし、花を供えている人たちがいます。

<足跡>
大乗院橋:鹿児島市稲荷町
清水城跡、大乗院跡(清水中学校):鹿児島市稲荷町36-29
稲荷神社:鹿児島市稲荷町34−15
福昌寺跡(島津家墓地):鹿児島市池之上町48
キリシタン墓地:鹿児島市池之上町24