五代友厚 離別(2)
Godai Tomoatsu, Separation (2)

高崎正風
高崎正風 Takasaki Masakaze

五代友厚は、慶応3年4月(1867年5月)に鹿児島の坊中馬場に屋敷を拝領したものの、翌年1月には外国事務局判事として大阪在勤となる。五代は実妹一家にこの屋敷に移り住むよう要請するが、城ケ谷の兄徳夫が反対するなどして、なかなか話がまとまらなかった。

同じ頃、五代は最初の妻、豊との離別を高崎正風や五代東之丞に相談している。高崎正風は歌人として有名だが、維新前は国事に奔走。しかし、武力討幕に反対したことで蟄居を余儀なくされ、一時鹿児島に戻っていた。五代の相談に応じた高崎は、明治元年10月24日(1868年12月7日)付書簡で、来年正月ごろに離別状を渡すのがよかろうと言っている。迎妻の念なく、ただ病身の老母を慰むるための結婚であり、生涯東奔西走し国家のために尽くすつもりで、居住を定める考えもない故、とするよう内容の指南もしている。豊とは明治2年中に正式に離縁した。

一方、妹の嫁ぎ先である祁答院家は10月末に坊中馬場へ引っ越すことを決めたが、城ケ谷の憤怒を恐れて結局これを断り、家移りは取り止めになった。高崎は12月22日付書簡で、これ以上どうしようもないので家邸共に売り払うか、家番を雇って野菜でも作らせるか二策しかないと嘆いている。祁答院仲右衛門重之が明治6年の手紙に、地税上納が始まり、空屋敷にては色々不都合云々と書いているから、この屋敷はずっと空き家のままだったのだろう。

母親の見舞いのため鹿児島に帰っていた五代が大阪に戻ると、仏艦デュプレックス号(La Dupleix)の艦長アベル・デュ・プティ=トゥアール(Abel du Petit-Thouars)が運上所に五代を訪ねてきて、新しい仏公使、戊辰戦争、キリシタン問題などを話し合ったという。日本在住欧米人の間で、長崎のキリシタン問題、つまり浦上四番崩れは、この頃最も強い関心事のひとつとなっていた。

Godai Tomoatsu consulted with Takasaki Masakaze and Godai Tonojo about his divorce and the management of his residence in Kagoshima. Around that time, the crackdown on Japanese christians in Nagasaki became a major concern to the Europeans in Japan.

<参考文献>
アベル・デュプティ=トゥアール著 森本英夫訳『フランス艦長の見た堺事件』1993年
大阪商工会議所編『五代友厚関係文書目録』1973年
日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料 第一巻』1971年

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