五代友厚 離別(1)
Godai Tomoatsu, Separation (1)

五代友厚
五代友厚(『五代友厚伝』より) Godai Tomoatsu

外国事務局判事としてすでに大阪在勤となっていた五代友厚は、慶応4年4月1日(1868年4月28日)より母親の病篤しということで休暇をとり、約1ヶ月間鹿児島に帰っている。五代が帰阪してまもなく、母やすは6月27日に逝去した。やすは中風症、つまり脳出血の後遺症であったとある書簡には書かれている。帰阪後、五代は7月15日の大阪開港に向け多忙を極めており、また、五代宛て多く書簡に葬儀の報告があることから、五代自身は母親の葬儀に出席しなかったと思われる。

五代の最初の妻、豊から友厚宛て10月4日の手紙には、義母の死を悔やみ、きちんと墓参していること、家に自分一人であるので、祁答院家、つまり五代の実妹一家が移り住むよう依頼してくれたことはありがたいと言っている。また、おはるどのとおひろ様が訪ねてきて、五代の母がたいへん喜んでいたと報告している。おはるどのとおひろ様とは、おそらく長崎の徳永広子とその娘治子のことだろう。五代の家籍には入っていないが、治子は薩英戦争の年、文久3年(1863年)に生まれた五代の子である。母やすが孫にあたる治子に会っていたとすれば、治子5歳のときか。

遡って5月29日付高崎正風の書簡には「崎陽御愛閏御令女に面会す」とあるから、治子の来鹿について高崎が何か取り計らったのかもしれない。実姉篠原広子も友厚宛ての手紙に「おはる殿も御下りにて嬉敷く」と書いている。明治5年の吉田清成書簡には「おひろどの家の事、延引も榎津町に取極める」とあるから、五代は後々まで二人の面倒をみていたようだ。治子は早世したとも伝えられるが、五代の妹信子の夫、祁答院仲右衛門重之が明治16年に「東京表お治殿に先般男子御出産の由祝す」と書き送っている。20歳になった娘治子のことだとすれば、五代も孫の顔を見たのかもしれない。

Godai Tomoatsu, an officer of Foreign Affairs Office in Osaka, went back to his home, Kagoshima in April 1868 to see his sick mother. His mother was passed away in August, soon after Godai returned to Osaka.

<参考文献>
大阪商工会議所編『五代友厚関係文書目録』1973年
日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料 第一巻』1971年

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