
磯庭園とも呼ばれる仙巌園は、万治元年(1658年)に造られた島津光久の別邸で、鹿児島鶴丸城から北東へ4キロほどの場所にあって、庭園からは錦江湾と桜島を望むことができる。嘉永4年(1851年)、薩摩藩主に就任した島津斉彬は、その敷地の一部と周辺に造船所や造砲所、火薬製造所、ガラス工場など近代洋式工場群を築くとともに、反射炉、ガス灯、写真、電信等さまざまな分野の実験を行った。
これらの工場群は文久3年(1863年)の薩英戦争で焼失してしまったが、イギリスとの交戦で集成館事業の重要性を改めて認識した薩摩藩は、すぐさま復興に着手し、慶応元年(1865年)には集成館機械工場を竣工、慶応3年には日本初の紡績工場である鹿児島紡績所を創設した。集成館機械工場は、外壁に溶結凝灰岩を用いた堅牢な造りの洋風建築で、現在も博物館「尚古集成館」として利用されている。
薩英戦争開戦間近の文久3年6月28日(1863年8月12日)、五代友厚と寺島宗則(松木弘安)は連れ立って徒歩で鹿児島城下から磯へ向かう。磯の火薬製造所の責任者は竹下清右衛門で、開戦は不可避だろうとの見立てであった。竹下清右衛門は蘭学を学び、反射炉や大砲の鋳造、集成館機械工場の建設にも関わった人物である。五代と寺島は、磯浜から小艇に乗って重富に避泊させていた蒸気船に移り戦争に備えた。
竹下清右衛門に見込まれ、同じく反射炉や大砲鋳造に携わっていた石河確太郎は、後に日本各地の紡績工場の建設に寄与する。薩摩藩の洋学校「開成所」の教授でもあった石河は、薩摩藩英国留学生の派遣にも深く関わった。鹿児島紡績所に設置されたプラット・ブラザーズ社(Platt Bros. & Co.)などの紡績機械は五代らがイギリスで購入したものだが、機械購入にあたっては事前に石河の指南があったことは間違いないだろう。
Sengan-en Garden in Kagoshima was constructed in 1658 as a villa of Shimazu Mitsuhisa. In the 1850s, Shimazu Nariakira, 11th Lord of Satsuma, built a western-style industrial complex called Shusei-kan in this area. Godai Tomoatsu was involved in the Kagoshima Cotton Mill which was established in this industrial area in 1867.
<参考文献>
尚古集成館『ー図録 薩摩のモノづくりー 島津斉彬の集成館事業』2003年
田村省二『薩摩藩における蘭学受容とその変遷』「国立歴史民俗博物館研究報告 第116集」2004年
寺島宗則研究会編『寺島宗則関係資料集 下巻』1987年