
前列右から 長沢鼎、町田久成、町田清蔵
元治2年3月19日(1865年4月14日)の夕方、五代友厚と寺島宗則(松木弘安)、通訳の堀孝之を乗せた薩船が羽島に到着した。留学生の畠山義成はその船を雲行丸と日記に書き、町田清蔵(財部實行)は胡蝶丸だったと後に語っている。
2日後の3月21日、グラバー商会(Glover&Co.)の蒸気船オースタライエン号(The Australian)が姿を現した。船長以下73人が乗り、うち30余人は中国人だった。グラバーの手代ライル・ホーム(Ryle Holme)も留学生らの案内役として乗船していた。当時14歳だった町田清蔵にとって、ホームは生まれて初めて見る異国人で「おそろしき様な心地がした」という。また、五代から渡されたブランケット(毛布)も初めて見るものでうれしく大事にしたと語っている。
オースタライエン号には、まず新納久脩、五代、堀、朝倉盛明が乗船した。残りの留学生らが夕方、世話になった家を去るにあたり、当主より短冊に何か書いてくれろと頼まれ、羽島を離れ、日本を離れる直前の気持ちを各々和歌に詠んでいる。この日、一行は船で一泊し、3月22日の早朝、羽島から香港へ向け出発した。
羽島で船を待っていた17名のうち4名は町田姓である。彼らは兄弟で、なぜ町田家から4名も選ばれたのかは不明だが、四男である町田清蔵は「一行十七人(内一人に民部の三弟は羽島と云ふ所にて罹病し渡英を免ぜらる)」と語っているから、三男の町田猛彦は渡英しなかった。羽島で変死したとも言われている。
一行が香港に到着すると、薩英戦争で鹿児島を攻撃した英艦ユリアラス号(Euryalus)が碇泊していた。町田清蔵(財部實行)の回顧録にはこの船について「巡洋艦より私共の一行を招待して午後の饗応がありました」とある。
On 16th April 1865, “The Australian”, a steamship owned by Thomas Glover arrived in Hashima and picked up all the 19 Satsuma students including Godai Tomoatsu and Terajima Munenori. The ship first set sail for Hong Kong in the early morning of next day.
<参考文献>
大久保利謙監修『新修森有禮全集第4巻』「畠山義成洋行日記抄」「財部實行回顧談」1994年