
前列右から 中村博愛、松村淳蔵、森有礼、畠山義成
大目付だった新納久脩を団長に、英仏への留学生として選ばれた薩摩藩の16名は、元治2年1月20日(1865年2月15日)に鹿児島を発し、途中伊集院の妙円寺を詣り、さらに少し先の苗代川(現在の日置市東市来町美山)で一泊した。翌日、市来湊から船に乗り羽島浦に到着する。羽島は鹿児島城下から北西へ約50キロのところにある小さな漁村だが、 薩摩藩はここを長年密貿易港として使っていたようである。
このとき、五代友厚、寺島宗則(松木弘安)、通訳の堀孝之の3名は、長崎にあって留学生らの渡欧準備に奔走していた。寺島が江戸から長崎に至り五代と合流したのが元治2年1月4日(1865年1月30日)であったから、それまでも五代は余程準備を進めていたに違いない。留学生一行が乗る船は、英商トーマス・グラバー(Thomas Glover)が用立てた。グラバーは五代と非常に親しく、また、文久3年(1863年)には伊藤博文や井上馨を含む長州藩士5人の洋行を手引きした経験があるから五代も頼りにしたものであろう。
鎖国の時代、海外渡航は幕府により禁じられていたため、長州藩士や薩摩藩士のこうした洋行は、つまりは密航ということになった。薩摩藩の留学生たちも、表向きは甑島や奄美大島への視察という虚偽の辞令を受け、渡航中に用いる変名を与えられた。羽島に到着して、留学生たちはほどなく出帆の予定であったが、ヨーロッパ航路の都合で蒸気船の到着が遅れ、約2ヶ月のあいだ羽島に逗留することとなる。羽島では藤崎家、川口家という海沿いの商家に投宿した。留学生たちは、自分たちの本当の使命を秘して滞在するしかなかった。
While Godai Tomoatsu and Terajima Munenori were busy in Nagasaki for preparing Satsuma students to send to Europe, the students were waiting for the ship in Hashima, a small fishing village of Kagoshima, for about 2 months until the ship from Nagasaki arrives.
<参考文献>
寺島宗則研究会編『寺島宗則関係資料集 下巻』1987年
薩摩藩英国留学生記念館ホームページ http://www.ssmuseum.jp