
五代友厚は、文久3年7月(1863年8月)の薩英戦争で寺島宗則(松木弘安)とともにイギリスに抑留され、英艦で横浜に連れてこられる。神奈川に上陸後、しばらくのあいだ武蔵国旛羅郡下奈良などに潜伏していたが、薩英間で生麦事件の調停相成り、薩藩内の時勢も変化しつつあったことから、翌年正月、密かに長崎に戻る。五代らの潜伏先を世話した清水卯三郎によれば、長崎行きを止めても聞かぬと悟り、人の少ない池の端にある精進料理屋に誘って酒を酌み交わし、別れを惜しんだという。
五代は長崎で酒井三蔵(三造、正三とも)邸やトーマス・グラバー(Thomas Glover)邸にかくまわれていたが、その間薩摩藩士の野村盛秀(宗七)や川村純義らと往来して、薩英戦争の際の自らの行動を説明し、世界の大勢をとき、元治元年(1864年)4月頃ようやく青天白日の身となった。時をおかず、五代は富国強兵と英仏への留学生派遣、またその資金の調達方法を述べた上申書を藩に提出した。上申書は認められ、藩への復帰が許されると、長崎で洋行準備に取りかかる。
五代の上申書には留学生派遣の計画が仔細に述べられているが、薩英戦争の前年、寺島宗則は文久遣欧使節としてヨーロッパ各国を回っており、五代は当然その話を聞いていたであろうし、グラバー邸に寓していたことから、ここでも欧州留学について具体的な助言を得たに違いない。
寺島は、五代が長崎に発った後もなお下奈良で潜伏生活を続けていたが、五代が許されてほどなく寺島も藩への復帰が許された。寺島は7月より江戸に出て、妻子とともに妻の実家のある白金に滞在していたようだ。そして、藩命により12月初めに江戸を発し、元治2年の正月に長崎に着いて五代と再会した。藩命とはつまり、五代とともに藩の留学生を率いてイギリスへ渡航することであった。
Godai Tomoatsu submitted a written statement to Satsuma Domain and suggested to send a group of selected Samurais to Europe. The purpose was to acquire advanced skills and knowledge from technically rich countries and increasing Satsuma’s wealth and military power as a result.
<参考文献>
公爵島津家編輯所編『薩藩海軍史 中巻』1928-1929年
寺島宗則研究会編『寺島宗則関係資料集 下巻』1987年
日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料 第四巻』1974年