
文久3年6月22日(1863年8月6日)に鹿児島へ向かうため横浜を出帆した7隻の英国艦隊は、表向き長崎を経由する予定であったが鹿児島に直航し、6月27日、谷山郷平川村の七ッ島付近に投錨した。御船奉行副役として長崎に在勤していた五代友厚は、急遽通弁堀孝之を伴い馬で鹿児島へ帰国した。
このとき薩摩藩は、青鷹丸(Sir George Grey)、天祐丸(England)、白鳳丸(Contest)という3隻の蒸気船を所有し、寺島宗則(松木弘安)と五代がこれらを管轄していた。寺島宗則は医者で蘭学に通じ、文久2年に幕府が派遣した第一次遣欧使節(文久遣欧使節)としてヨーロッパ各国を回ったが、帰国直後に島津久光の上京に随行した際、御船奉行に任ぜられていた。
青鷹丸は6月15日に大阪を出港し、日向の細島を経て、英国艦隊が鹿児島湾に到着する前日の26日夜に鹿児島に着船している。五代と寺島は、戦闘の用がないのなら汽船は鹿児島湾を離れて坊津辺りに回航させた方がよかろうと小松帯刀に問うたが、重富の岬陰に碇泊すべしとの命であった。側役中山中左衛門はこの献策を聞いて大いに怒り且つ罵り、その卑怯未練の行為なるを詰責したという。
6月27日の夜、五代と寺島は下町海岸の宿屋で動静を窺い、翌日、鹿児島市街を通過し磯の火薬製造所に立ち寄った。市中の人々は火災時の如く家財を運搬していたという。鶴丸城は海に近く大砲の射程圏内となるため、本陣は西田町の千眼寺に置かれた。決戦は避けられぬ情勢となり、五代と寺島は磯の海岸から小艇に乗って重富沖に碇泊中の汽船に向かった。
The British squadron reached Kagoshima bay on 11th August 1863. At that time, Satsuma domain owned three steamships which were conducted by Godai Tomoatsu and Terajima Munenori.
<参考文献>
公爵島津家編輯所編『薩藩海軍史 中巻』1928-1929年
寺島宗則研究会編『寺島宗則関係資料集 下巻』1987年
宮本又次『五代友厚伝』1980年