
長崎海軍伝習所に学んでいた五代友厚は、藩主島津斉彬の逝去により安政5年10月13日(1858年11月18日)、鹿児島への帰国を命ぜられた。薩摩藩は茂久(忠義)が封を継いだが、実権は祖父の斉興、その卒去後は実父久光が握っていた。五代は帰国中、一朝有事の際に外国と対抗するに足る蒸気船を購求すべきであると藩主に建言している。
翌年5月、藩命により再び長崎へ遊学。片岡春卿の『贈正五位勲四等五代友厚君伝』には「君再び長崎港に出で、益々技術を研修す」とある。このとき海軍伝習所はすでに閉鎖されていたから、五代がどこでどのように研修していたのか定かではないが、多数の人々と交遊し、特に通詞の堀孝之や岩瀬公圃、長崎の豪商永見伝三郎やその弟米吉郎とは密なる友情を結んだ。安政6年8月に来日した英商トーマス・グラバー(Thomas Glover)と知り合ったのもこの頃だろう。
文久2年(1862年)初めに五代は御船奉行副役となる。同年4月には千歳丸で上海に渡り、藩のために蒸気船を購入し船長を務めるようになる。翌年、薩英戦争の捕虜となった後しばらく亡命生活を送るが、上申書が認められて慶応元年(1865年)に渡欧した。紡績機械や銃などを購入して帰国後、御納戸奉行格御用人席外国掛として蒸気船の購入や斡旋、商社設立計画、パリ万博の準備などに携わる一方、維新に向けて長州や土佐の藩士とも頻繁に接触している。
新政府となり、徴士参与として外国事務局判事や大阪府判事に粉骨砕身するも、明治2年7月(1869年8月)に官を辞す。在官中、伊地知壮之丞(貞馨)の代理として軍艦御買上御用掛を兼務していたこともある。退官後は在阪のまま藩の堺紡績方掛を任ぜられた。廃藩置県後も短期間ではあるが、鹿児島の国産会社大阪出張所掛で砂糖取引きに関わっている。
<参考文献>
日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料 第一巻』1971年
宮本又次『五代友厚伝』1980年